第9話:あこがれに、なお想う
第9話:あこがれに、なお想う
その店を見つけたのは、本当にただの偶然だった。
都内のメーカーで広報として働き始めて一年。慣れないヒールで靴擦れを作り、毎日のように「正解」を探しては、誰にも見つからない場所でため息をつく。そんな日々の繰り返し。
駅へと続く商店街の、一番外れ。
夕闇に沈みかけた街角で、そこだけが古びた琥珀のような光を漏らしていた。
「アサミジュエリー……」
看板に書かれたその名前に、私は立ち止まった。
竹川亜沙美。私の名前だ。
その時、バッグの底で眠っていた、壊れたままのブローチのことを思い出した。三年前、母が亡くなった時に遺してくれた、小さな銀の花。
修理に出さなきゃ、と思いながらも、百貨店の華やかなカウンターにそれを持っていく勇気が出なかった。今の自分は、あんなに綺麗な場所にふさわしい「ちゃんとした大人」になれている気がしなかったから。
カウベルの乾いた音が響く。
店内は、金属の匂いと、古い紙のような香りが混ざり合っていた。
「いらっしゃいませ」
奥から出てきたのは、意外なほど若い、けれど落ち着いた雰囲気の男性だった。
私と同じくらいの長さのセミロングの髪を後ろで束ね、使い込まれた作業着を着ている。
私は緊張で喉を鳴らしながら、ケースから取り出したブローチを差し出した。
「これ……直せますか?」
彼はそれを受け取ると、カウンターの下からルーペを取り出した。
一分、あるいはそれ以上の沈黙。
彼はじっと、母が遺した歪なつぼみを見つめている。
拒絶されるのを待つ数秒は、ひどく長く感じられた。
「難しいですね」
彼はポツリと言った。私の心臓が、冷たい水に浸されたように重くなる。
「……そうです、よね。古いものですし…」
「いえ、そうじゃないんです。当時の職人さんが、この線を出すのにどれだけ苦労したかが伝わってきて。安易に手を加えると、その『迷い』を消してしまいそうで……。でも、やってみます。なんとかできるでしょう」
彼は顔を上げ、小さく微笑んだ。
それは、安心させるための社交辞令ではなく、一人の職人が覚悟を決めた時の、ひどく静かな微笑だった。
「預かり伝票を書きますね。……お名前を伺っても?」
「……竹川、亜沙美です」
彼の手が、一瞬だけ止まった。
「あさみ」と書きかけたペンを置き、彼は不思議そうな顔で私を見た。
「奇遇ですね」
「ええ、店名と同じだったので、つい。……奥様のお名前、だったりするんですか?」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。
ただ、この温かい光に満ちた店の「名前」の由来を知りたかった。
「いや、僕は独身ですよ。苗字が『浅見河原』っていうんです。そこから適当に取って…アサミ。大家さんにも、センスがないって笑われました」
彼は少し照れくさそうに笑い、伝票の続きを書いた。
独身だという言葉に、胸の奥がほんの少しだけ騒ぐ。
私と同じ「アサミ」。その響きが、他人事とは思えない親密さを運んできた。
一週間後の引き渡し予定日。
私は仕事を少しだけ早めに切り上げ、あの店へ向かった。
けれど、店に入った瞬間、浅見河原さんは慌てたように立ち上がった。
「……すみません。急な依頼が重なってしまって…あと一時間だけ。一時間だけ待ってもらえませんか?」
整った顔に、焦りの色が滲んでいる。
普段は完璧に物事をこなしていそうな彼が、こうして「見通しの甘さ」を露呈させているのが、なんだか妙に人間らしくて、私は思わず口角を上げた。
「大丈夫です。どこかで時間を潰してきます」
「いえ、外は冷えますから。……もしよければ、店の中で待たれませんか?」
彼は奥から、丸椅子を持ってきた。
「そこでお茶でも」と勧められたテーブルの上には、彼の雰囲気とはおよそ似つかわしくない、パンダのパッケージの駄菓子が置かれていた。
「これ…浅見河原さんとイメージが…」
「あぁ、違うんです…さっき大家さんが置いていったんです。バブルを生き抜いたっていうわりに、好みが子供っぽくて」
彼が困ったように笑いながら出したお茶を啜ると、カステラのようなの香りが鼻をくすぐった。
彼は「失礼します」と短く断ると、店の奥にある作業台へと向かった。
「……近くで、見てもいいですか?」
私の言葉に、彼は驚いたように振り返った。
「ええ。あまり面白いものじゃないですよ。地味な作業ですから」
そう言いながらも、彼は私のために椅子を近づけてくれた。
作業台のランプが灯る。
その瞬間、彼の纏う空気が、一気に研ぎ澄まされたものに変わった。
バーナーの火が、青く細く、闇を切り裂く。
彼は酸素の量を調節し、銀の地金を赤く染めていく。
その手つきには、迷いがない。
さっきまでの、納期を忘れて慌てていた人物と同一人物だとは思えなかった。
「職人の仕事って、不思議ですね」
火の音だけが響く静寂の中で、私は囁くように言った。
「……何がですか?」
「こうして見てると、魔法をかけてるみたいに見えます。壊れた過去を、ちゃんと繋ぎ直して、新しい意味を与えてる」
「そんな大層なものじゃないですよ。僕は、ただ手が勝手に動いているだけ。……本当は、才能なんてないんです。毎日、これが最後かもしれないって思いながら、必死にヤスリをかけてるだけですから」
彼は手を止めずに、淡々と語った。
その「謙遜」は、自分を卑下するものではなく、むしろ技術という神聖なものへの「畏怖」に近い。
私は、彼の横顔を見つめていた。
細い睫毛が、火の光に照らされて微かに震えている。
彼が地金を叩く音、ヤスリで削る音、そして、時折漏れる深い呼吸。
(ああ、なんだか落ち着く)
その時、自分でも驚くほどの明確な欲求が、胸を突き上げた。
広報の仕事で書く、誰を幸せにするのかも分からないプレスリリース。
期待に応えようと、自分を削って作り出す笑顔。
そんなものよりも、この小さな火の側で、一つの「形」を追い求めていたい。
「あの…このお店は人を募集してたりしませんか?」
口から零れた言葉に、彼が作業を止めて、私を見た。
「……え?」
彼はしばらく私を見つめていたが、やがて困ったように眉を下げた。
「竹川さん。ここは、あなたが思っているほど綺麗な場所じゃありませんよ。指は汚れるし、目は疲れるし、何より、自分自身と毎日向き合うことになる。……広報のお仕事の方が、ずっと華やかで素敵ですよ」
「私にとっては、こっちの方がずっと『華やか』に見えます」
一時間後。
仕上がったブローチは、母が着けていた頃よりも、どこか誇らしげな輝きを放っていた。
けれど、母の思い出を奪うような新しさではない。
彼の言った通り、当時の職人の「迷い」さえも尊重した、慈愛に満ちた修復だった。
「……浅見河原さん。私を、ここで働かせてください」
受け取ったブローチを握りしめたまま、私は言った。
彼は呆然としたように、私と、自分の作業台を交互に見た。
「……本気ですか? さっきも言った通り、僕は弟子を取れるほどの腕でも、そんな器でも──」
「そんなこと言わないでください。……私、…アサミさんが修理してくれて…本当に感動したんですから…。納期とか、掃除とか、コーヒーを淹れることとか。……なんでもやるんで、どうかお願いします」
その日から、私の一方的な「弟子入り志願」の通いが始まった。
うつろうものを、なお思う。
作業台の青白い灯火が、人生を照らす道標に見えた。




