表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
うつろうものを、なお想う  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/12

第9話:あこがれに、なお想う

第9話:あこがれに、なお想う


 その店を見つけたのは、本当にただの偶然だった。

 都内のメーカーで広報として働き始めて一年。慣れないヒールで靴擦れを作り、毎日のように「正解」を探しては、誰にも見つからない場所でため息をつく。そんな日々の繰り返し。

 駅へと続く商店街の、一番外れ。

 夕闇に沈みかけた街角で、そこだけが古びた琥珀のような光を漏らしていた。


「アサミジュエリー……」


 看板に書かれたその名前に、私は立ち止まった。

 竹川亜沙美たけかわ あさみ。私の名前だ。

 その時、バッグの底で眠っていた、壊れたままのブローチのことを思い出した。三年前、母が亡くなった時に遺してくれた、小さな銀の花。

 修理に出さなきゃ、と思いながらも、百貨店の華やかなカウンターにそれを持っていく勇気が出なかった。今の自分は、あんなに綺麗な場所にふさわしい「ちゃんとした大人」になれている気がしなかったから。


 カウベルの乾いた音が響く。

 店内は、金属の匂いと、古い紙のような香りが混ざり合っていた。


「いらっしゃいませ」


 奥から出てきたのは、意外なほど若い、けれど落ち着いた雰囲気の男性だった。

 私と同じくらいの長さのセミロングの髪を後ろで束ね、使い込まれた作業着を着ている。

 私は緊張で喉を鳴らしながら、ケースから取り出したブローチを差し出した。


「これ……直せますか?」


 彼はそれを受け取ると、カウンターの下からルーペを取り出した。

 一分、あるいはそれ以上の沈黙。

 彼はじっと、母が遺した歪なつぼみを見つめている。

 拒絶されるのを待つ数秒は、ひどく長く感じられた。


「難しいですね」


 彼はポツリと言った。私の心臓が、冷たい水に浸されたように重くなる。


「……そうです、よね。古いものですし…」


「いえ、そうじゃないんです。当時の職人さんが、この線を出すのにどれだけ苦労したかが伝わってきて。安易に手を加えると、その『迷い』を消してしまいそうで……。でも、やってみます。なんとかできるでしょう」


 彼は顔を上げ、小さく微笑んだ。

 それは、安心させるための社交辞令ではなく、一人の職人が覚悟を決めた時の、ひどく静かな微笑だった。


「預かり伝票を書きますね。……お名前を伺っても?」


「……竹川、亜沙美です」


 彼の手が、一瞬だけ止まった。

 「あさみ」と書きかけたペンを置き、彼は不思議そうな顔で私を見た。


「奇遇ですね」


「ええ、店名と同じだったので、つい。……奥様のお名前、だったりするんですか?」


 なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。

 ただ、この温かい光に満ちた店の「名前」の由来を知りたかった。


「いや、僕は独身ですよ。苗字が『浅見河原あさみがわら』っていうんです。そこから適当に取って…アサミ。大家さんにも、センスがないって笑われました」


 彼は少し照れくさそうに笑い、伝票の続きを書いた。

 独身だという言葉に、胸の奥がほんの少しだけ騒ぐ。

 私と同じ「アサミ」。その響きが、他人事とは思えない親密さを運んできた。


 一週間後の引き渡し予定日。

 私は仕事を少しだけ早めに切り上げ、あの店へ向かった。

 けれど、店に入った瞬間、浅見河原さんは慌てたように立ち上がった。


「……すみません。急な依頼が重なってしまって…あと一時間だけ。一時間だけ待ってもらえませんか?」


 整った顔に、焦りの色が滲んでいる。

 普段は完璧に物事をこなしていそうな彼が、こうして「見通しの甘さ」を露呈させているのが、なんだか妙に人間らしくて、私は思わず口角を上げた。


「大丈夫です。どこかで時間を潰してきます」


「いえ、外は冷えますから。……もしよければ、店の中で待たれませんか?」


 彼は奥から、丸椅子を持ってきた。

 「そこでお茶でも」と勧められたテーブルの上には、彼の雰囲気とはおよそ似つかわしくない、パンダのパッケージの駄菓子が置かれていた。


「これ…浅見河原さんとイメージが…」


「あぁ、違うんです…さっき大家さんが置いていったんです。バブルを生き抜いたっていうわりに、好みが子供っぽくて」


 彼が困ったように笑いながら出したお茶を啜ると、カステラのようなの香りが鼻をくすぐった。

 彼は「失礼します」と短く断ると、店の奥にある作業台へと向かった。


「……近くで、見てもいいですか?」


 私の言葉に、彼は驚いたように振り返った。


「ええ。あまり面白いものじゃないですよ。地味な作業ですから」


 そう言いながらも、彼は私のために椅子を近づけてくれた。

 作業台のランプが灯る。

 その瞬間、彼の纏う空気が、一気に研ぎ澄まされたものに変わった。

 バーナーの火が、青く細く、闇を切り裂く。

 彼は酸素の量を調節し、銀の地金を赤く染めていく。

 その手つきには、迷いがない。

 さっきまでの、納期を忘れて慌てていた人物と同一人物だとは思えなかった。


「職人の仕事って、不思議ですね」


 火の音だけが響く静寂の中で、私は囁くように言った。


「……何がですか?」


「こうして見てると、魔法をかけてるみたいに見えます。壊れた過去を、ちゃんと繋ぎ直して、新しい意味を与えてる」


「そんな大層なものじゃないですよ。僕は、ただ手が勝手に動いているだけ。……本当は、才能なんてないんです。毎日、これが最後かもしれないって思いながら、必死にヤスリをかけてるだけですから」


 彼は手を止めずに、淡々と語った。

 その「謙遜」は、自分を卑下するものではなく、むしろ技術という神聖なものへの「畏怖」に近い。

 私は、彼の横顔を見つめていた。

 細い睫毛が、火の光に照らされて微かに震えている。

 彼が地金を叩く音、ヤスリで削る音、そして、時折漏れる深い呼吸。


(ああ、なんだか落ち着く)


 その時、自分でも驚くほどの明確な欲求が、胸を突き上げた。

 広報の仕事で書く、誰を幸せにするのかも分からないプレスリリース。

 期待に応えようと、自分を削って作り出す笑顔。

 そんなものよりも、この小さな火の側で、一つの「形」を追い求めていたい。


「あの…このお店は人を募集してたりしませんか?」


 口から零れた言葉に、彼が作業を止めて、私を見た。


「……え?」


 彼はしばらく私を見つめていたが、やがて困ったように眉を下げた。


「竹川さん。ここは、あなたが思っているほど綺麗な場所じゃありませんよ。指は汚れるし、目は疲れるし、何より、自分自身と毎日向き合うことになる。……広報のお仕事の方が、ずっと華やかで素敵ですよ」


「私にとっては、こっちの方がずっと『華やか』に見えます」


 一時間後。

 仕上がったブローチは、母が着けていた頃よりも、どこか誇らしげな輝きを放っていた。

 けれど、母の思い出を奪うような新しさではない。

 彼の言った通り、当時の職人の「迷い」さえも尊重した、慈愛に満ちた修復だった。


「……浅見河原さん。私を、ここで働かせてください」


 受け取ったブローチを握りしめたまま、私は言った。

 彼は呆然としたように、私と、自分の作業台を交互に見た。


「……本気ですか? さっきも言った通り、僕は弟子を取れるほどの腕でも、そんな器でも──」


「そんなこと言わないでください。……私、…アサミさんが修理してくれて…本当に感動したんですから…。納期とか、掃除とか、コーヒーを淹れることとか。……なんでもやるんで、どうかお願いします」


 その日から、私の一方的な「弟子入り志願」の通いが始まった。

 

 うつろうものを、なお思う。

 作業台の青白い灯火が、人生を照らす道標に見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ