第10話:継がれる火に、なお想う
第10話:継がれる火に、なお想う
商店街の時計台が、午後の三時を告げる。
私は、手に持ったスーパーの袋──中身は安売りされていたジャガイモと、駄菓子の「パンダカステラ」──を揺らしながら、自分の持ちビルの一角にある「アサミジュエリー」へと足を向ける。
バブルの頃、私はこの場所で、今よりずっと騒がしく、ギラついた宝石をいくつも作ってきた。けれど今は、一人の不器用な男にこの場所を貸している。
浅見河原崇。
腕は確かだ。石を留める時の指先の繊細さや、地金を叩く時のリズムには、天性の「品」がある。だが、本人はそれを一向に認めようとしない。それどころか、納期も忘れて一点の磨きに没頭してしまう、危ういほどの職人性を持っている。
カウベルを鳴らして店に入ると、そこにはいつもの光景があった。
…いや、「いつもの」というには、ここ二ヶ月ほどで定着した、少しだけ賑やかな光景だ。
「……ですから、竹川さん。うちは一人で手一杯なんです。教える時間も、座る場所さえまともにないんですよ」
作業台の向こう側で、崇が困り果てたような声を出す。
その視線の先には、セミロングの髪をきっちりと整えた一人の女性。竹川亜沙美さんだ。彼女は丸椅子に背筋を伸ばして座り、崇が淹れた冷めきった茶を前にして、一歩も引かない瞳で彼を見つめている。
「場所なら、この端っこで構いません。掃除も、経理も、納期の管理も、私がやります。アサミさんは……いえ、師匠は、作ることにだけ集中してください」
「師匠って呼ぶのはやめてください。僕にはまだ──」
「おーい、二人とも。相変わらず熱心だねぇ」
私が声をかけると、崇は救いでも求めたような顔でこちらを振り返った。
「大山さん、いいところに来てくれました。この竹川さんを説得してください。彼女、あんなに立派な会社で広報をされているのに、こんな油臭い場所に毎日通い詰めるなんて……」
「いいじゃないか、崇くん。君の技術に惚れ込んだんだろ。バブルの頃なんて、弟子入り志願者が扉の前に列を作ったもんだ。君は幸せ者だよ」
私は買ってきたパンダカステラをカウンターに放り出し、自分用の椅子を勝手に引き出した。
「大山さんまで茶化さないでください。僕は気ままにやりたいんです。誰かの人生を背負うなんて、そんな大層なこと、僕にはできませんよ」
崇はそう言って、逃げるように作業机のランプを点けた。
青白い光が彼の横顔を照らす。彼は、自分を「凡人」だと言い張ることで、他人との深い関わりから無意識に逃げている。誰かを育てるということは、自分の技術を言葉にし、自分の限界を鏡に映すことだ。彼は、その鏡が怖いのだろう。
ふと、亜沙美さんの手元を見た。
彼女は、崇が作業机の隅に置いていた「失敗作」のリングのパーツを、大切そうに、けれどどこか熱を持った目で見つめていた。
その目は、単なる憧れではない。その金属の奥にある、崇が込めた「迷い」や「祈り」を、正確に聞き取ろうとしている目だ。
「……ねぇ、亜沙美さん」
私は、駄菓子の袋をガサゴソと開けながら聞いた。
「どうして、ここなんだい? 他にもっと有名な工房も、大きなメーカーもあるだろう」
彼女は、少しだけ考え、それから静かに口を開いた。
「ここじゃなきゃダメなんです。この店で、母のブローチを直してもらった時、思いました。……アサミさんは、壊れたところを『無かったこと』にしないんです。歪んでいた傷跡を、ちゃんとその人の歴史として残したまま、また使えるようにしてくれる。その優しさが、……今の私には、何よりも眩しかったんです」
崇の手が、一瞬だけ止まった。金槌の音が止み、工房に静寂が落ちる。
彼女は、崇が自分でさえ気づいていない「呪い」の本質を、一瞬で見抜いていた。
崇は、かつての天才たちへの劣等感から、自分の作るものに完璧を求めていない。むしろ、不完全であることに救いを見出している。その「不完全な優しさ」を、彼女は「職人としての美学」として受け取ってしまった。
これは、呪いになるな、と私は思った。
互いが互いの欠損部分を補い合ってしまう、ひどく甘く、救いようのない共依存の予感だった。
夜、亜沙美君が諦めたように店を後にした後、私は後片付けをしていた崇の背中に声をかけた。
「崇くん。あの子を受け入れてやりなさい」
「……大山さんまで、本気ですか?」
「彼女は、君が自分を嫌っている理由を、そのまま『好き』だと言ってくれる数少ない人間だ。……職人は、道具に愛されるだけじゃいけない。人に愛されることから逃げると、いつかその腕も腐るぞ」
崇は、机に並んだヤスリを一本ずつ、丁寧に拭き上げながら沈黙していた。
「……不幸になるかもしれませんよ、彼女。僕みたいな、出口のない人間に付いてきたら」
「不幸になってもいい、と思える場所を見つけた人間の顔を、君は見てなかったのかい?」
崇は答えなかった。
ただ、窓の外を流れる夜の街の光を、吸い殻の溜まった灰皿越しに眺めていた。
数日後、アサミジュエリーには、新しい机が一つ増えた。
それは私が倉庫から出してきた、かつて私が使っていた古い作業台だ。
二人の「アサミ」が、同じ匂いのする空気の中で、背中を向けて座り出す。
うつろうものを、なお想う。
かつて私が守りたかった火が、別の形になって、またこの場所で燃え始めようとしていた。
それが、これからどれほど二人を焼き、削っていくかも知らずに。
私は、店先に置いたスイートピーの鉢植えに、そっと水をやった。
春の風が、少しだけ苦く、けれど温かく吹き抜けていった。




