第11話:共鳴したよろこびに、なお想う
第11話:共鳴したよろこびに、なお想う
「今日から、よろしくお願いします」
その言葉が、少しだけ湿った工房の空気に溶けていった。
私の前には、先日まで置かれていなかった、使い込まれた木の作業台。大家の大山さんが「俺の形見の先払いだ」なんて縁起でもないことを言いながら、倉庫から引きずり出してきたものだ。
かつての主人の癖だろうか。机の端には、小さな刻み傷が無数についている。
私は、自分の手でその傷をなぞった。
今日から私は、竹川亜沙美ではなく、アサミジュエリーの「アサミ」になる。
「……竹川さん、そこに座る前に、まずこれを」
背後から、低く、どこか落ち着かない声がした。
振り返ると、崇さんが一本の銀の棒と、小さなヤスリを差し出していた。
「銀の地金です。それを、一ミリの誤差もなく『真四角』に削り出してください。今日一日は、それだけです。……飽きたら、いつでも会社に戻っていいですから」
「はい。やってみます」
私は、崇さんからの皮肉をはね除け道具を受け取った。
指先が触れる。崇さんの指は、優しそうな印象に反して、驚くほど硬くて、熱かった。
作業台に向かい、ヤスリを動かす。
シュッ、シュッ。
銀が削れる微かな音が、工房に響く。
隣の席では、崇さんがすでに自分の世界に没入していた。彼が糸鋸を引くリズムは、まるで心臓の鼓動のように規則正しく、聴いているだけで私の呼吸まで整っていくような気がした。
一時間、二時間。
ただの四角形を作るだけなのに、どうしても角が丸くなってしまう。
焦れば焦るほど、ヤスリの刃は滑り、銀の棒は無惨な形に削れていった。
「……あ」
指先を少しだけ掠めた。
赤い血が、銀の粉にまみれて一点、滴り落ちる。
痛いというより、自分の不甲斐なさが情けなくて、視界が滲んだ。
「見せてください」
気づくと、崇さんが真横に立っていた。
彼は私の手を無言で取ると、机の引き出しから救急箱を取り出した。
「……すみません。汚してしまって」
「いいんです。職人の最初の仕事は、自分の血を地金に吸わせることだって、昔の親方は笑ってました」
崇さんは、消毒綿で私の指を拭く。その手つきは、石を留める時と同じくらい丁寧で、割れ物を扱うように繊細だった。
「どうして、そんなに優しくするんですか」
思わず、口から漏れていた。
崇さんは、絆創膏を貼り終えると、ふっと視線を逸らした。
「……優しくなんて、してませんよ。道具を汚されるのが嫌なだけです」
「嘘です。さっきの、一瞬だけ、すごく悲しそうな目をしてました」
崇さんの肩が、びくりと跳ねた。
彼はヤスリを握り直し、自分の机に戻ろうとして、立ち止まる。
「……竹川さん。あなたは、僕が持っていないものを持っている」
「え?」
「あなたは、地金の声を聴こうとしている。僕は……ただ、地金を黙らせているだけだ」
その言葉の意味が、その時の私には分からなかった。
ただ、彼の背中が、広報の仕事で出会ってきたどんな成功者よりも、孤独で、震えているように見えた。
夕暮れ時、大家の大山さんがひょっこりと顔を出した。
「おー、やってるねぇ。亜沙美ちゃん、指の怪我は職人の勲章だよ。……あ、崇くん。君に伝言だ。例のプラチナのリング、納期が一日早まったってよ」
「……えっ。それは困ります。まだ石座の磨きが——」
「なら無理って言いなよ。あんた、昨日も遅くまでやってたろ」
大山さんが呆れたように笑う。
崇さんは、真っ青な顔をしてスケジュール帳を捲り始めた。
「だめだ、間に合わない。でも、お断りするわけには……」
「私が、磨きます」
私は、椅子から立ち上がった。
崇さんが、驚いたように私を見る。
「無理ですよ。あなたはまだ、銀の棒すら——」
「やり方は、ずっと見ていました。崇さんの動き、指の角度、力の入れ方。……全部、頭の中で再現できます」
「竹川さん、これは商品なんです。失敗は許されない」
「失敗しません。だって、私はあなたの『一部』になりに来たんですから」
自分で言っておきながら、心臓が跳ねた。
それは、弟子としての言葉を超えた、何かもっと湿り気を帯びた執着のような響きを持っていた。
崇さんは、しばらく私を凝視していた。
やがて、彼は諦めたように溜息をつき、一本の未完成のリングを私の机に置いた。
「……このシリコンポイントを使ってください。力は、羽が触れるくらいで。いいですね?」
「はい、師匠」
深夜。
工房には、二つの手元灯だけが灯っていた。
リューターの回る低い音が、心地よい子守唄のように響く。
私は、崇さんの指示通りに、プラチナの肌を撫でていく。
不思議だった。
初めて触れるはずの道具が、驚くほど手に馴染む。
崇さんが磨いた箇所と、私が今磨いている箇所。その境界線が、溶けて混ざり合っていく感覚。
(ああ、心地いい)
彼と同じものを見ている。
彼と同じ痛みを、指先に感じている。
この瞬間、私は確かに、浅見河原崇という人間の内側に浸食していた。
ふと視線を感じて顔を上げると、崇さんが作業を止め、幽霊でも見るような目で私を見つめていた。
「……崇さん?」
「……。いえ。なんでも、ありません」
彼は慌てて目を逸らしたが、その瞳に宿っていたのは、確かな「恐怖」だった。
私は、それを知らずに微笑んだ。
彼に近づけたことが、ただ、嬉しかったから。
この共鳴が、いつか彼を追い詰めるナイフになることも。
私の「優しさ」が、彼の居場所を奪う侵略になることも。
夜の窓に映る二人の影は、まるでもう、一つの生き物のよう重なり合っていた。
うつろうものを、なお想う。
私は、彼という光を最も美しく輝かせるための、漆黒の背景になりたかった。
けれど、背景が濃くなればなるほど、光は消えてしまうのだということに、私はまだ、気づいていなかった。




