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うつろうものを、なお想う  作者: あめたす


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第12話:削りゆく自尊に、なお想う

第12話:削りゆく自尊に、なお想う


 「崇さん、お茶淹れましたよ。それと、明日の納期の伝票、整理しておきました」


 アサミジュエリーの朝は、私のこの言葉から始まる。

 弟子入りして一年。工房の風景は、目に見えて変わった。

 

 以前は工具や地金、書きかけのメモが散乱していた崇さんのデスクは、今では用途ごとに整然と区別されている。私が、彼が作業しやすいように、指先の動線まで計算して配置し直したからだ。

 

「……ああ。ありがとう、竹川さん」


 崇さんは、顕微鏡から目を離さずに短く答える。

 その声は穏やかだが、どこか空気が薄い場所で話しているような、微かな掠れを含んでいた。

 

 (――最近、崇さんあまり笑わなくなったな。)

 

 大家の大山さんは、そんな二人の様子をカウンターの隅で眺めながら、ときどき心配そうに眉を下げる。


「亜沙美ちゃん、あまり根を詰めなさんな。崇くんがどんどん『お殿様』になっちまうよ。職人は、少し不自由なほうがいい仕事をするもんだ」

 

「いいんです、大山さん。崇さんには、作ることにだけ集中してほしいんです」

 

 私は笑って、崇さんが飲み残した冷めたコーヒーを片付ける。

 彼が何に困っているか。次にどの工具を欲しがるか。

 今の私には、彼が言葉にする前にすべて分かる。

 彼が右手の親指を少しだけ動かせば、私は間髪入れず、適切な番手のヤスリを差し出すことができる。

 

 それは、究極の献身だと思っていた。

 けれど、ときどき背筋が寒くなる。

 私の差し出したヤスリを受け取る崇さんの指先が、一瞬だけ、拒絶するように強張るのを見逃さなかったから。

 

 その日の午後は、珍しく客が途絶えていた。

 

「……竹川さん。この唐草の透かし、少し手伝ってもらえますか」

 

 崇さんが、作業途中の原型にするワックスを私に差し出した。

 彼にしては珍しい「甘え」に、私は内心で歓喜した。

 

「もちろんです。ここの曲線のラインですよね? 崇さんが、この前描いていたラフの通りに仕上げておきますね」

 

「……。いや、ラフ通りじゃなくても、君の感性で進めてみてほしいんだ」

 

「そんな。私の感性なんて必要ありませんよ。私は、崇さんの頭の中にある完成形を、現実にするための手でいたいんです」

 

 私は、崇さんの意図を120%汲み取ろうと、全神経を集中させてワックスを削り始めた。

 一ミリの狂いもなく、崇さんの「癖」をなぞる。

 彼が引くはずの線を、彼よりも正確に、彼よりも美しく。

 

 シュッ、シュッ。

 

 削りカスの粉が、私と崇さんの境界線を埋めていく。

 

「……できました。どうですか、崇さん」

 

 自信を持って差し出したワックスを見て、崇さんは言葉を失った。

 

「……完璧だ。僕が自分でやるより、ずっと、僕らしい」

 

 崇さんの言葉は、賞賛というよりは、自分自身の存在を否定された男の、悲痛な呻きに聞こえた。


 夜。

 崇さんは先に帰ると言って店を出た。

 私は一人、工房に残って崇さんの作業机を磨いていた。

 

「亜沙美ちゃん、まだやってるのかい」

 

 大山さんが、コンビニの袋を提げて戻ってきた。中には、安っぽいチョコのアイスが入っている。

 

「あ、大山さん。崇さんの作業台、少し汚れが目立っていたので」

 

「……。亜沙美ちゃん。あんたは、本当に優しい子だね。でもね、職人にとっての作業台は、自分だけの『聖域』なんだよ。たとえ汚れていても、それがその人の呼吸なんだ」

 

「でも、綺麗なほうが気持ちよく仕事ができるじゃないですか」

 

「……あんたが綺麗にすればするほど、崇くんは自分の場所を失っていく。自分がそこにいた証拠を、あんたに丁寧に消されているような気持ちになってるんじゃないかな」

 

 大山さんの言葉が、鋭いヤスリのように私の心を削った。

 

「……私は、ただ、彼の一部になりたいだけなんです。彼ができないことを埋めて、彼を完璧な職人にしたいだけなのに」

 

「それが『侵食』だってことに、あんたは気づいてないよ」

 

 大山さんが帰ったあと、私は一人、暗い工房で自分の手を見つめた。

 

 爪の間に染み込んだ金属の粉。

 崇さんと同じ場所にできた、小さな火傷の跡。

 

 (私は、私を消したい)

 

 竹川亜沙美という不完全な存在を捨てて、浅見河原崇という天才を補完する「部品」になりたい。

 それが、私にできる唯一の愛の形だと思っていた。

 

 けれど。

 私が彼を理解しようとすればするほど、彼は遠ざかっていく。

 私が彼の理想を体現しようとすればするほど、彼は自分の才能を疑い始める。

 

 私が磨き上げたプラチナの輝きは、彼にとっては、自分の終わりを告げる鏡のようなものだったのかもしれない。

 

 「崇さん……。私、間違っているのかな」

 

 誰もいない作業台に向かって呟く。

 答えは返ってこない。

 ただ、窓の外を走る電車の音が、遠くで虚しく響いていた。

 

 翌朝。

 店に来た崇さんは、いつものように私の淹れたコーヒーを一口飲み、何も言わずに顕微鏡を覗き込んだ。

 

 彼が作業をしている背中が、昨日よりも少しだけ小さく見える。

 

 私は、昨日磨き上げた彼のデスクの上に、一枚の新しいサンドペーパーを置いた。

 

「……竹川さん」

 

「はい」

 

「……。いや、なんでもない」

 

 崇さんは何かを言いかけて、飲み込んだ。

 その「言わなかったこと」が、今の私たちのすべてだった。

 

 混ざり合い、溶け合って、一つの形になれると信じていた。

 けれど、二つの金属を無理に溶着させれば、そこには必ず「歪み」が生じる。

 

 その歪みが、いつか決定的な「破断」を招くことを。

 私はまだ、認めたくなかった。


 うつろうものを、なお想う。 


 ただ、隣で響く糸鋸の音を、自分自身の鼓動だと思い込もうとしていた。

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