第13話:逃げる背中に、なお想う
第13話:逃げる背中に、なお想う
朝。
いつもなら、店を開ける一時間前には工房に灯るはずの明かりが、消えていた。
アサミジュエリーの重い鉄の扉。
その前に立った瞬間、私は言いようのない胸騒ぎを覚えた。
「……崇さん?」
鍵を開けて店に入る。
暗い店内に、静寂が澱んでいる。
いつもそこにあるはずの、金属を削る音も、バーナーがシューと息を吐く音も、何もない。
ただ、カウンターの上に、一通の手紙と一本の鍵が置かれていた。
『あとは頼む』
それだけの言葉。
書き置きの筆跡は、どこか急いだように震えていた。
「……嘘。なんで」
私は、その場に崩れ落ちそうになるのを堪え、彼の作業台へと駆け寄った。
――そこには、何一つ「未完」のものがなかった。
昨夜、私が完璧に整えたはずのデスク。
そこに並んでいた仕掛かり中の修理品も、オーダーの原型も、すべてが完全に仕上げられていた。まるで、自分の存在した痕跡を、職人としての矜持だけで綺麗に拭い去ったかのように。
ただ、一つだけ。
顕微鏡の横に、小さなワックスの塊が転がっていた。
それはこの前、私が「彼以上に彼らしく」削り上げた、あの唐草の透かし。
彼が引くべき線を、私が奪ってしまった、あの死骸。
その頃、崇は、駅のホームで電車を待っていた。
手に持っているのは、使い古した道具箱一つ。
それ以外はすべて置いてきた。
十五年かけて築き上げた店も、信頼も、そして、自分を慕っていたたった一人の弟子も。
(……怖いんだ、竹川さん)
崇は、ポケットの中で、震える自分の右指を強く握りしめた。
かつて二十年前、修行先で出会ったあの「天才」と同じ呼吸を、今の亜沙美がし始めていた。
教えたことを吸収するだけではない。
彼女は、崇が何年もかけてようやく辿り着いた「解」に、最短距離で、しかも無邪気に手を伸ばす。
崇が血の滲むような努力で塗りつぶしてきた「凡人」という空白を、彼女の輝きが、残酷なほど鮮やかに照らし出していく。
「師匠」という仮面を被っていることが、もう限界だった。
彼女が差し出す完璧なヤスリ。
彼女が磨き上げる、一点の曇りもないプラチナ。
それを見るたび、崇の心には、賞賛ではなく、どす黒い自己嫌悪が沈殿した。
――僕は、君に追い抜かれるのが怖い。
――君の瞳に映る僕が、偽物だとバレるのが、たまらなく恐ろしいんだ。
「……卑怯だな、僕は」
誰もいないホームに、自嘲の声が落ちる。
愛している。
職人としての彼女の才能を。自分を信じ切っている、その残酷なまでの純粋さを。
だからこそ、壊したくなかった。
自分の嫉妬や矮小さが、彼女の無垢な火を消してしまう前に、自分から消えるしかなかった。
「……崇さん、これ……」
亜沙美は、彼が残したワックスを手に取った。
裏側を見て、息が止まる。
そこには、以前はなかったはずの細かな彫り跡が刻まれていた。
私が「完璧だ」と自惚れて削ったラインの隙間に、崇さんが、ほんの少しだけ手を加えた跡。
それは、私の技術を否定するものではなかった。
ただ、あまりにも「自由」だった。
正解や模範を目指す私の線にはない、迷いながらも、どこまでも伸びようとする意志。
「……ああ。そうか」
私はようやく気づいた。
私が彼を「完璧」にしようとすればするほど、彼は「一人の人間」として息ができなくなっていたのだ。
私が彼の椅子を磨けば磨くほど、彼は座る場所を失っていたのだ。
私の献身は、彼にとっての救いではなく、緩やかな絞首刑だった。
「……。亜沙美ちゃん、早いな」
背後で、扉の開く音がした。
大山さんが、いつになく真剣な、それでいてどこか悟ったような顔で立っていた。
「……大山さん。崇さんが、いないんです」
「……そうかい。あいつ、結局逃げやがったか」
大山さんは、崇の作業台に歩み寄り、無言でその冷たい銀色の表面を撫でた。
「亜沙美ちゃん。職人ってのはね、自分の不器用さを愛せなくなったとき、一番辛くなるんだよ。あいつは、あんたの眩しさに、自分の影を隠せなくなったんだろうな」
「私の、せいですか……?」
「……違うよ。そうじゃない。あいつが、自分を許せなかっただけだ」
大山さんは、ポケットから古い駄菓子の包み紙を取り出し、カウンターに置いた。
「許せるもんじゃないけどね。逃げるのも、一つの『誠実』さだよ。あいつなりの。……でもね、亜沙美ちゃん。店を任せるって言われたんだろ? なら、あんたはどうする」
亜沙美は、手の中のワックスを強く握りしめた。
鋭い彫り跡が、手のひらに刺さる。
痛み。
その痛みだけが、今、彼と繋がっている唯一の確かな感触だった。
「……。開けます、店」
掠れた声で、私は言った。
「崇さんが戻ってくる場所を、失くしたくないから。……それと、いつか彼に、私が削ったんじゃない、私自身のジュエリーを見せたいから」
外では、街が動き始めていた。
崇が乗った電車は、もう、この街の境界線を越えてしまっているだろう。
私たちが信じた、あの工房の幸福な時間は、プラチナの粉と共に風に消えた。
けれど。
うつろうものを、なお想う。
私は、震える手でバーナーに火をつけた。
青い炎が、静かに、しかし激しく。
一人きりになった工房を、刺すように照らし出した。




