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うつろうものを、なお想う  作者: あめたす


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第8話:つないだ手に、なお想う

第8話:つないだ手に、なお想う


 「アサミジュエリー」の軒先に吊るされた古い風鈴が、ぬるい春一番に揺れて、ちりんと頼りない音を立てた。

 大家の大山さんが持ってきた、出所の怪しい「高級そうな抹茶クッキー」の粉が、作業台の隅にこぼれている。私はそれを指先でそっと集め、無機質な地金の粉と混ざらないように、丁寧にゴミ箱へ捨てた。

 職人の朝は、静寂から始まるのではない。前の日にやり残した、自分への失望と向き合うことから始まる。

 ヤスリの目は昨日よりも少しだけ摩耗し、私の指先は昨日よりも少しだけ、冷たさに敏感になっている。


「……アサミさん。これ、やっぱりダメだ」


 カウンターの向こうで、低い声が響いた。

 佐伯航さん28歳。短く切り揃えた髪に、実直そうな眉。隣には、春の陽だまりをそのまま服にしたような、明るい色のワンピースを纏った婚約者の真央さんが座っている。

 目の前には、十種類以上のプラチナリングのサンプルが並んでいた。

 航さんはそれを一つひとつ手に取っては、はめ、そしてわずかに顔を顰めて外す。その繰り返しが、もう一時間も続いている。


「航君、さっきからそればっかり。どれも素敵じゃない。私はこの、少し細身のデザインがいいと思うんだけど」


 真央さんが、焦れったそうに言った。彼女の指には、すでに候補の一本が収まり、窓からの光を撥ね返している。


「デザインは、いいんだ。……でも、これじゃない。なんか、こう……馴染まない」


「『馴染まない』って、つけてれば慣れるものでしょう? 航君が『なんでもいい』って言うからここに来たのに。……本当は、乗り気じゃないの?」


 真央さんの声に、微かな棘が混じる。

 航さんは黙り込んだ。彼は決して不機嫌なわけではない。ただ、自分の内側にある「正解」を言葉にするための辞書を持っていないだけなのだ。

 私は、ピンセットを置いて二人の横に立った。


「佐伯さんは、見た目ではなく『触り心地』を気にしてらっしゃるんですね」


 航さんが、弾かれたように顔を上げた。


「……触り心地?」


「ええ。指輪には『内甲丸うちこうまる』という仕上げがあります。指に触れる内側のエッジを、職人が手作業で丸く削り落とすんです。コンマ数ミリの世界ですが、これだけで、異物感は驚くほど消えます」


 私は、一本の試作品を航さんの前に置いた。

 それは、装飾も何もない、ただの滑らかな銀の輪だ。けれど、内側の仕上げだけは、私が昨夜磨き抜いたものだった。


「これ、試してみてください」


 航さんは半信半疑のまま、左手の薬指にそれを滑り込ませた。

 次の瞬間、彼の眉間の皺が、氷が解けるように消えた。


「……あ。……全然、違う。つけてないみたいだ」


「指輪って、不思議なんです。外側は世界に見せるためのものですが、内側は、自分と、その隣にいる人にしか伝わらない『感触』なんです」


 私は二人の、まだ少し距離のある手元を見つめた。


「佐伯さんはきっと、指輪をただの指輪だとは思っていない。……小さな『つなぎっぱなしの手』のように考えてらっしゃるんじゃないですか?」


 航さんは耳の付け根を赤くして、視線を逸らした。


「……結婚指輪って、ずっと着けてますよね。繋いだ手の中で、ずっと触れてるものだから。……そこに少しでも違和感があると、いつか彼女の手を、離したくなる気がして。……そんなの、嫌だから」


 真央さんが、息を呑むのが分かった。

 彼女の瞳に溜まっていた不満の雲が、一瞬で涙の膜に変わる。


「航君……。そんなこと考えてたの? 口で言ってくれなきゃ、分からないよ」


「……言おうとしたけど。……なんか、恥ずかしいし。言葉にすると、嘘っぽくなる気がして」


(ああ、この人は知っているんだ。言葉はどれほど尽くしても、本音の数パーセントも届かない。でも、肌に触れる温度や、指先に伝わる質感だけは、裏切らないということを)


 沈黙が店を満たした。

 それは、気まずい沈黙ではない。お互いの「分からなさ」を、そのまま受け入れようとする、静かな儀式のような時間。


「おーい、アサミさん! また湿っぽい空気にしてるのかい?」


 そこへ、空気の読めない明るい声が飛び込んできた。

 大家の大山さんだ。手には、どこかの駄菓子屋で買ってきたらしい、派手な色の綿菓子を持っている。


「大山さん、仕事中ですよ」


「分かってるよ。でもね、若い二人がそんなに真剣に手を握り合ってちゃ、指輪を作る前に手が汗ばんで形が変わっちゃうだろ? アサミさん、この指輪に『握力増強装置』とか付けられないのかい? 一度握ったら、二度と離せないやつをさ」


「……大山さん。それはジュエリーじゃなくて、拷問器具です」


 航さんが、ふっと吹き出した。


「……それは、ちょっと、彼女の骨が折れるので。……普通のでいいです。アサミさんの作る、『痛くないやつ』を」


 真央さんも笑いながら、航さんの腕を小突いた。


「もう。航君、そこは真面目に返さなくていいから! ……アサミさん、お願いします。この人の、不器用なこだわりを、形にしてください」


「承知いたしました。……極上の『内甲丸』を仕上げておきますね」


 二人が店を出ていく後ろ姿を見送る。

 夕暮れの光の中で、二人の影は一つに重なり、そしてゆっくりと解けていった。

 大山さんが、余った綿菓子を頬張りながら、独り言のように言った。


「いいもんだねぇ。あの不器用な感じ。昔の僕らを見てるみたいだ」


「大山さんにも、あんな時期があったんですか?」


「失礼な。僕だって、一度くらいは『離したくない』なんて柄にもないことを考えたよ。……まあ、結局は離れちゃったんだけどね」


 大山さんは、空になった綿菓子の袋を丸めて、ポケットにねじ込んだ。


「アサミさん。君は、誰の手を離したくないと思ったことがあるかい?」


 私は、答えなかった。

 代わりに、自分の左手の薬指の付け根を、右手の親指で強く押さえた。

 そこには、指輪の跡なんて、どこにも残っていないのに。


(言葉は嘘をつくし、いつか消えてしまう。けれど、あの時の工房の匂いや、ヤスリをかける音、そして、隣で誰かが息をしている確かな気配。……それだけが、私の輪郭を今も支えている)


 私は作業台に戻り、航さんのためのプラチナを火にかけた。

 青い炎が、冷たい金属を赤く染め上げていく。


「……羨ましいな、少しだけ」


 独り言は、火の音にかき消された。

 いつか私が、この場所から消えても。

 あの日、あの二人の指に残した「感触」だけは、彼らの日常の端っこで、静かに残り続けるだろう。

 「僕らが信じた永遠」なんて、そんな大層なものじゃない。

 ただ、ふとした瞬間に「ああ、繋がっているな」と思い出せる、コンマ数ミリの優しさを。


 私は顕微鏡を覗き込む。

 そこには、まだ誰のものでもない、真っさらな輝きが待っていた。


 うつろうものを、なお想う。

 人は、形のない愛を信じきれなくて、重さのあるジュエリーを指に纏う。

 それは、自分自身を縛るための、一番優しい鎖なのかもしれない。

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