第7話:猛き姿に、なお想う
第7話:猛き姿に、なお想う
「アサミジュエリー」の午後は、どこか気怠い熱を帯びていた。
商店街の掲示板には、地元の女子バスケチーム、ハニービーズの試合日程が張り出されている。
窓の外を、バスケットボールを突く規則正しい音が通り過ぎていく。
私は、その音のリズムに合わせて、ピンセットの先で小さな丸カンを繋いでいた。
「……アサミさん。今日のハニービーズの試合、見た? 第4クォーターの逆転劇。あれは痺れたねぇ。思わずテレビの前で立ち上がっちゃったよ」
大家の大山さんが、新聞を広げながら嬉しそうに声を上げる。
「ええ、少しだけ。あのアグレッシブな守備は、見ていて勇気をもらえますね」
私は手を止めずに答える。
私の声は、いつも通り穏やかだ。けれど、わずかに肩の凝りを感じて、心の中で苦笑する。昨日、少し無理な体勢で磨き作業を続けたせいだろうか。
ドアベルが、弾けるような音を立てた。
入ってきたのは、蒼井 颯太さん22歳。
リュックを背負い、推しチームのロゴが入ったパーカーを着た彼は、いかにも「コミュ障」といった風情で、視線を泳がせながらカウンターに歩み寄ってきた。
「……あの、これ。ペンダントに……できますか」
彼が差し出したのは、宝石でも貴金属でもなかった。
それは、ひどく使い込まれた、古い真鍮製のホイッスルだった。
表面は傷だらけで、所々メッキが剥げ、くすんだ鈍い光を放っている。
「ホイッスル、ですか。……いいですね。真鍮は磨けばまた独特の輝きが出ます」
「磨かなくて、いいです」
颯太君は、遮るように言った。
「その……傷も、へこみも、そのままで。チェーンを付けて首から下げられるように、枠だけ作ってほしいんです」
「分かりました。大切な方の遺品……ですか?」
「……いえ、祖父のものです。まだ、生きてますけど…」
彼はスマホを取り出し、女子バスケリーグの試合速報をチェックする。画面をなぞる指先が、微かに震えていた。
「じいちゃん、昔は審判をやってたんです。すげー怖くて、笛を吹く姿は誰よりも強そうで。僕にバスケを教えてくれたのも、じいちゃんでした」
「素敵な思い出ですね」
「……でも、今はもうダメです。管だらけで、僕のことも分からない。あんなの、僕が知ってるじいちゃんじゃないですよ」
颯太君は、吐き捨てるように言った。
その目は、目の前のホイッスルではなく、スマホの中の「輝かしい世界」だけを見ようとしている。
「だから僕は、もう病院には行きません。今日も、これから遠征先まで試合を観に行くんです。忙しいんで…。……じいちゃんが愛したバスケを見てる方が、じいちゃんを思い出せるから」
「……『優しい嘘』ですね」
私の言葉に、颯太君の視線がようやく私を射抜いた。
「嘘? 何の嘘ですか。僕はただ、今の弱ったじいちゃんじゃなくて、若かった頃のじいちゃんとの思い出を……」
私は作業台から立ち上がり、彼の前に歩み出た。
(私は、この青年の頑なな拒絶を知っている。完璧なものだけを愛し、壊れていく現実から目を背けたいという、残酷なまでの純粋さを)
「颯太君。あなたが応援している選手が、もし大怪我をして全盛期のプレーができなくなっても、あなたは彼女を『偽物だ』って捨てますか?」
「……っ、そんなの、するわけないじゃないですか! 怪我をしたって、リハビリして、必死にコートに戻ろうとしてるなら、それだって応援するのが……」
「じゃあ、どうして。おじいさんのことは『あんなの、じいちゃんじゃない』なんて言うんですか」
店内が、静まり返った。
大山さんが、新聞を置く小さな音が響く。
「病気も、老いも、命のリハビリみたいなものです。全盛期の音は出せないかもしれない。でも、その管だらけの体で、おじいさんは今も『生きる』という試合の最中なんじゃないですか?」
「……でも」
「あなたがこのホイッスルの傷を消さないでほしいと言ったのは、そこにおじいさんの歴史が刻まれていると分かっているからでしょう。……弱さは、歴史の一部ですよ。それも含めての、おじいさんです」
私は、彼の掌にホイッスルを戻した。
「形あるものは、いつか壊れます。でも、壊れかけたものの中にしか宿らない光も、あるんですよ」
颯太君は黙り込んでしまった。
ホイッスルを握りしめる彼の指関節が、白くなっている。
彼が言葉に含ませた「本音と建前のズレ」──彼は病院に行かない理由を「忙しい」と称していたが、本当はただ、自分のヒーローが崩れていく姿に耐えられないだけだ。
「……アサミさん。本当に嫌なこと言いますね」
「職人の性ですよ。歪みを見つけると、つい指摘したくなってしまう」
私は、彼のリュックから覗くバスケットボールのキーホルダーに目をやった。
「枠の製作、承ります。仕上がりは一週間後です。……余計なお世話ですけど、一度会いに行ってみてはどうですか。言葉…届くかもしれませんよ」
「……気が向いたら…」
颯太君は、照れ隠しのようにパーカーのフードを深く被り、逃げるように店を出ていった。
「アサミさん。今日は一段と厳しかったねぇ」
大山さんが、苦笑いしながら近づいてくる。
「そうですか。……少し、自分自身の過去を重ねてしまったかもしれません」
私は、自分の手元を見つめた。
(私は知っている。かつて自分の限界から逃げ出した男の背中を。そして、その背中を追い続けて、自分自身を透明にしてしまった女の孤独を)
「大山さん。さっきの『逆転劇』の話、もっと詳しく聞かせてください。私は、負け試合のあとの、あの静かなコートの匂いの方が好きなんですけどね」
「えっ、相変わらずズレてるねぇ、アサミさんは」
私は、冷え切った作業机に指を這わせる。
私が磨いているのは、宝石の輝きか。それとも、誰かが手放そうとした「弱さ」という名の誇りだろうか。
窓の外では、春の夕暮れが、オレンジ色の影を長く引き延ばしていた。
その色は、かつてコートを駆けた勇者たちの、最後の咆哮のようにも見えた。
うつろうものを、なお想う。
人は、完璧なものに憧れ、欠けたものに安らぎを見出す。




