第6話:夢の通い路に、なお想う
第6話:夢の通い路に、なお想う
駅のホームには、まだ冷たい風が吹いている。
「アサミジュエリー」の窓の外では、大家の大山さんが育てている鉢植えのスイートピーが、所在なさげに揺れていた。
「春だねぇ、アサミさん。この花、咲いてるのをよく見かけるけど、実は手入れが難しいんだよ。水をやりすぎてもいけない、放っておいてもいけない。まるで人間のわがままを形にしたような花だ」
大山さんののんきな声を聞きながら、私は顕微鏡を覗き込んでいた。
古いプラチナのリング。石が外れ、爪は摩耗し、全体が薄く曇っている。
それを修復する手元は、迷いなく、しかし慎重だ。
「……大山さん。手入れが難しいのは、多分それだけ繊細な場所で咲こうとしているからですよ。守らなきゃいけないものが多いんですよ」
ドアベルが、どこか遠慮がちに鳴った。
入ってきたのは、水城芳恵さん。58歳。
落ち着いたベージュのコートを纏っているが、その指先はコートの裾をぎゅっと握りしめていた。
「いらっしゃいませ。何かお手伝いできることはありますか」
「これ、修理できますか。……いえ、直してどうするってわけじゃないんですけど」
彼女が差し出したのは、一本の古いネックレスだった。
それは驚くほど手入れのされていない、真っ黒に酸化したシルバーのペンダント。モチーフは、小さな花のつぼみだ。
「ずいぶん昔のものですか?」
「……ええ。昔、彼氏を駅で待ち続けて渡されたもので。でも、一度もつけられないまま、引き出しの奥で眠っていました。捨てることもできず、かといって、見るのも苦しくて」
芳恵さんは、遠くを見るような目で、窓の外を流れる商店街の景色を見つめていた。
「ずっと昔のことなのに、まだ駅に彼がいるような気がして。私はもう別の街で暮らしているのに…」
私はそのペンダントを預かり、超音波洗浄機にかけた。
微細な振動が水を震わせ、積年の汚れを剥ぎ取っていく。
黒い膜が剥がれ、銀の地肌が白く顔を出したとき、私はあることに気づいた。
「これ、スイートピーのつぼみですね。……でも、少しだけ形が歪んでいます。鋳造じゃない。地金を叩き出して、一から手で作られていますね」
「……彼、職人になりたてだったんです。不器用で、いつも指に絆創膏を貼っていて。私をどこにも連れて行かないくせに、いつも駅で難しい顔をして夢ばかり語っていました」
芳恵さんは自嘲気味に笑った。その笑顔には、隠しきれない寂しさが滲んでいる。
「私、その夢についていけなかった。彼より先に、私が大人になってしまったから。……彼、今頃どうしてるかしら。まだ、あんな不自由な夢を追いかけているのかしら。それとも、もうとっくに諦めて……」
私は、銀のつぼみを丁寧に磨き直す。
回転するバフの音だけが、静かな店内に響く。
削りすぎれば、彼が込めた拙い「想いの形」が消えてしまう。
残すべきは輝きではなく、彼がその時、震える手で引いた「線の迷い」だ。
(私は知っている。職人が一番見られたくないのは、この完成される前の、迷いを含んだ線だということを。でも、その迷いこそが、誰かにとっての救いになることもある)
「芳恵さん。何十年も経ってからこれを修理に持ち込むのは、過去を懐かしんでいるからじゃないですよ」
私の言葉に、彼女の肩が小さく揺れた。
「……え?」
「『あの時、ついていけなかった自分』を、今の自分が許しに来ているんです。あなたは彼を捨てたんじゃなくて、自分の人生を生きることを選んだ。それは、責められることじゃありません」
「……アサミさん。あなたは、どうしてそんなふうに、人の心を勝手に覗くの」
芳恵さんの声は震えていた。
言葉にすれば「好きだった」で済むことも、形に残ってしまうと、それは呪いになる。
磨けば磨くほど、当時の彼の熱量が、私の指先に火傷のような熱を伝えてくる。
「……形あるものは、嘘をつけませんから」
私は、磨き上がったペンダントをクロスで拭き、彼女の前に差し出した。
かつての黒ずみは消え、そこには若々しい、しかし少し不格好な銀のつぼみが輝いていた。
「……暖かい。変ですね、ただの冷たい金属のはずなのに」
芳恵さんは、それを受け取り、掌の中でそっと握りしめた。
首にかけることはしなかった。ただ、大切に、自分の体温を分け与えるように。
「ありがとうございます。私……ようやく、あの駅から一歩、外に出られそうな気がします」
彼女は、駅へ続く坂道を、少しだけ背筋を伸ばして歩いていった。
その後ろ姿は、どこか軽やかで、それでいてひどく孤独に見えた。
「アサミさん。結局、彼女は彼と再会すると思うかい?」
大山さんが、ソファから腰を浮かして尋ねた。
「さあ、どうでしょう……。でも彼女の春は、ようやく今、始まったみたいですよ。大山さんが育ててるスイートピーみたいに、少しだけわがままに」
「ははは、そりゃいい。でもアサミさん、君の目はちっとも笑ってないよ」
「……磨きすぎたかもしれません。地金も、心も」
私は、道具を片付けながら、自分の指先を見つめた。
指先に残る微かな研磨剤の匂い。
「大山さん、さっきのお団子、まだ残ってますか?」
「もう、冷めちゃってるよ」
「いいんです。冷めている方が、今の私にはちょうどいいですから」
私は、冷え切った団子を噛み締めた。
窓の外では、春の風が、名もなき記憶をどこかへ運んでいく。
うつろうものを、なお想う。
私は明日もまた、誰かの想いを光に変えるため、この場所で想いを磨き続けるのだろう。




