表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
うつろうものを、なお想う  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/5

第5話:みたされる嘘に、なお想う

第5話:みたされる嘘に、なお想う


「アサミさん。これ、昨日の売れ残りだけどね。食べるかい」


大家の大山さんが、カウンターにひょいと置いたのは、近所のコンビニで買ったであろう、少し油の浮いた揚げ鶏の袋だった。


「……大山さん。また見切り品ですか」


私は顕微鏡から目を離さずに答える。

 

「いいじゃないか、美味しいものは美味しいんだ。バブルの頃はね、こういうのを銀の皿に載せて食べていた人もいたんだよ。中身は変わらないのにね」


大山さんは朗らかに笑って、使い込まれたソファに深く腰掛けた。

 

ドアベルが、渇いた音を立てて鳴った。

入ってきたのは、九条怜治くじょう れいじさん。42歳。

体に吸い付くような仕立ての良いスーツを纏い、一分の隙もない所作で私の前に立った。

その瞳は、深海のように静かで、何も映していないように見える。


「以前お願いしていた、カフスを受け取りに」


「お待ちしておりました、九条さん」


私は用意していた小箱を差し出す。

中には、プラチナとオニキスで構成された、極めて幾何学的なカフスボタンが収まっている。一見すると無機質だが、光の角度によって、中心に埋め込んだ小さなダイヤモンドが鋭い火花を散らす。


「……完璧だ。私の輪郭が、これでようやく定まった気がする」


九条さんは自分の袖口にそれを合わせ、満足そうに口角を上げた。


「以前、おっしゃっていましたね。ご自身の過去を『最高のエンターテインメント』だと」


「ええ。20代の頃、信頼していた男にすべてを奪われました。資産も、事業も、名前すらも。……あの夜、私は路地裏で雨に打たれながら、自分の人生を『壮大な伏線』だと定義したんです。そう思わなければ、脳が焼き切れて死んでいたでしょうから」


彼は淡々と、まるで他人の成功譚を語るような口調で続けた。


「私を騙したあの男には、今でも感謝しています。彼が私に『嘘』という名の自由を教えてくれた。……事実に価値などない。それをどう解釈するか。それだけが、この世界で生き延びる唯一の武器です」


「……満たされるための、嘘、ですか」


「嘘ではありませんよ、アサミさん。私が『これは成功へのプロセスだ』と決めた瞬間に、それは真実へと書き換えられる。……あなたは、自分の仕事に嘘をついたことは?」


九条さんの冷徹な視線が、私の指先に落ちた。


「……嘘、ですか。私はただ、地金の声を聴くだけです。彼らがどうなりたいと言っているか。……でも、たまに思うことはあります。この歪みを消すことが、本当にその人のためになるのか。それとも、歪みこそがその人の真実なのか、と」


「ふふ、面白い。あなたは職人というより、セラピストのようだ」


九条さんは立ち上がり、カフスを指先で弾いた。硬質な音が店内に響く。


「過ぎたことは、すべてうまくいったこと。そう思えるまで、私は自分を騙し続けるつもりですよ」


「人は、意味づけでしか生き延びられませんから」


私の言葉に、九条さんは一瞬だけ足を止め、振り返らずに店を出ていった。

嵐のあとのような静寂が戻る。


「……怖い男だねぇ」


大山さんが、揚げ鶏の袋をガサガサと鳴らしながら呟いた。


「大山さん。あの人は、怖がられたいんですよ。そうして自分の周りに壁を作らないと、自分が消えてしまいそうだから」


「君には、そう見えるのかい?」


「……さあ。どうでしょうか」


私は九条さんのカフスを磨いていたクロスを、丁寧に畳んだ。

自分を肯定するために、過去を書き換える。

それは、かつての私にも心当たりがあった。


「一緒に働くことは、ずっと一緒にいることだ」と。

そう自分に言い聞かせていたあの幸福な時間は、果たして純粋な希望だったのか。それとも、現実を見ないための、私自身への「浸食」だったのか。

理解されたと錯覚した瞬間に、逃げられなくなる。

九条さんは、あのカフスという「重り」を身につけることで、自ら檻に入ったようにも見えた。

鏡の中の「私」を見る。

長い髪が、作業台の照明に照らされて、銀色に光った。


「大山さん。その揚げ鶏、一つもらえますか」


「おや、見切り品は嫌じゃなかったのかい?」


「……お腹が空いては、いい意味づけもできませんから」


私は、大山さんから差し出された脂っこい肉を、無作法に頬張った。

口の中に広がる俗っぽい塩気が、妙にリアルで、少しだけ安心した。

窓の外では、夜の闇がアサミジュエリーを飲み込んでいく。


うつろうものを、なお想う。

私は、消せない過去と、書き換えられない現在の間で、明日もまた、金属を叩き続けるのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ