第5話:みたされる嘘に、なお想う
第5話:みたされる嘘に、なお想う
「アサミさん。これ、昨日の売れ残りだけどね。食べるかい」
大家の大山さんが、カウンターにひょいと置いたのは、近所のコンビニで買ったであろう、少し油の浮いた揚げ鶏の袋だった。
「……大山さん。また見切り品ですか」
私は顕微鏡から目を離さずに答える。
「いいじゃないか、美味しいものは美味しいんだ。バブルの頃はね、こういうのを銀の皿に載せて食べていた人もいたんだよ。中身は変わらないのにね」
大山さんは朗らかに笑って、使い込まれたソファに深く腰掛けた。
ドアベルが、渇いた音を立てて鳴った。
入ってきたのは、九条怜治さん。42歳。
体に吸い付くような仕立ての良いスーツを纏い、一分の隙もない所作で私の前に立った。
その瞳は、深海のように静かで、何も映していないように見える。
「以前お願いしていた、カフスを受け取りに」
「お待ちしておりました、九条さん」
私は用意していた小箱を差し出す。
中には、プラチナとオニキスで構成された、極めて幾何学的なカフスボタンが収まっている。一見すると無機質だが、光の角度によって、中心に埋め込んだ小さなダイヤモンドが鋭い火花を散らす。
「……完璧だ。私の輪郭が、これでようやく定まった気がする」
九条さんは自分の袖口にそれを合わせ、満足そうに口角を上げた。
「以前、おっしゃっていましたね。ご自身の過去を『最高のエンターテインメント』だと」
「ええ。20代の頃、信頼していた男にすべてを奪われました。資産も、事業も、名前すらも。……あの夜、私は路地裏で雨に打たれながら、自分の人生を『壮大な伏線』だと定義したんです。そう思わなければ、脳が焼き切れて死んでいたでしょうから」
彼は淡々と、まるで他人の成功譚を語るような口調で続けた。
「私を騙したあの男には、今でも感謝しています。彼が私に『嘘』という名の自由を教えてくれた。……事実に価値などない。それをどう解釈するか。それだけが、この世界で生き延びる唯一の武器です」
「……満たされるための、嘘、ですか」
「嘘ではありませんよ、アサミさん。私が『これは成功へのプロセスだ』と決めた瞬間に、それは真実へと書き換えられる。……あなたは、自分の仕事に嘘をついたことは?」
九条さんの冷徹な視線が、私の指先に落ちた。
「……嘘、ですか。私はただ、地金の声を聴くだけです。彼らがどうなりたいと言っているか。……でも、たまに思うことはあります。この歪みを消すことが、本当にその人のためになるのか。それとも、歪みこそがその人の真実なのか、と」
「ふふ、面白い。あなたは職人というより、セラピストのようだ」
九条さんは立ち上がり、カフスを指先で弾いた。硬質な音が店内に響く。
「過ぎたことは、すべてうまくいったこと。そう思えるまで、私は自分を騙し続けるつもりですよ」
「人は、意味づけでしか生き延びられませんから」
私の言葉に、九条さんは一瞬だけ足を止め、振り返らずに店を出ていった。
嵐のあとのような静寂が戻る。
「……怖い男だねぇ」
大山さんが、揚げ鶏の袋をガサガサと鳴らしながら呟いた。
「大山さん。あの人は、怖がられたいんですよ。そうして自分の周りに壁を作らないと、自分が消えてしまいそうだから」
「君には、そう見えるのかい?」
「……さあ。どうでしょうか」
私は九条さんのカフスを磨いていたクロスを、丁寧に畳んだ。
自分を肯定するために、過去を書き換える。
それは、かつての私にも心当たりがあった。
「一緒に働くことは、ずっと一緒にいることだ」と。
そう自分に言い聞かせていたあの幸福な時間は、果たして純粋な希望だったのか。それとも、現実を見ないための、私自身への「浸食」だったのか。
理解されたと錯覚した瞬間に、逃げられなくなる。
九条さんは、あのカフスという「重り」を身につけることで、自ら檻に入ったようにも見えた。
鏡の中の「私」を見る。
長い髪が、作業台の照明に照らされて、銀色に光った。
「大山さん。その揚げ鶏、一つもらえますか」
「おや、見切り品は嫌じゃなかったのかい?」
「……お腹が空いては、いい意味づけもできませんから」
私は、大山さんから差し出された脂っこい肉を、無作法に頬張った。
口の中に広がる俗っぽい塩気が、妙にリアルで、少しだけ安心した。
窓の外では、夜の闇がアサミジュエリーを飲み込んでいく。
うつろうものを、なお想う。
私は、消せない過去と、書き換えられない現在の間で、明日もまた、金属を叩き続けるのだろう。




