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うつろうものを、なお想う  作者: あめたす


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第4話:われた氷に、なお想う

第4話:われた氷に、なお想う


 店内に、重たい金属音が響いた。

 大家の大山さんが、外から持ってきた大きな酸素ボンベを、慣れた手つきで作業場の隅へと運んでいく。


「アサミさん。これ、新しいのだよ。」


 私は顕微鏡から目を離し、そのボンベを受け取る。


「ありがとうございます、大山さん。でも、これくらい自分で運べましたよ」


「いいんだよ。年寄りのお節介さ。君は、その繊細な指先を大事にしなさい」


 大山さんは、シワの刻まれた手で自分の腰をトントンと叩きながら、おどけたように笑う。


 ドアベルが、どこか控えめに鳴った。

 入ってきたのは、水川結弦みずかわ ゆづるさん。32歳の、柔和な微笑みを湛えた男性だ。

 彼はカウンターの前に座ると、申し訳なさそうに小さな箱を差し出した。


「あの……婚約指輪をお願いしたいんです。ただ、少し変わったお願いになるかもしれませんが」


 私は箱を開ける。中には、古ぼけた、けれど丁寧に磨かれたシルバーのメダルが入っていた。


「これは?」


「子供の頃、凍った川の氷の上を渡ろうとして落ちたことがありまして。そのとき助けてくれた親友が僕を家まで背負ってくれて…そのときの背中が、今でも忘れられないんです。このメダルのデザインを、指輪の内側に、密かに刻んでいただけないかと」


 私はルーペを覗き込む。メダルには、荒々しくも力強い「波」の紋様が刻まれていた。


「……彼がいなければ、今の僕はいない。だから、人生で一番大切な約束の指輪に、彼の存在もこっそり混ぜておきたいんです。変ですよね。結婚する相手とは別の男の記憶を刻むなんて」


 結弦さんは自嘲気味に笑ったが、その瞳には一点の曇りもなかった。


「いえ。自立とは、一人で立つことだと思われがちですが、実際は違います。……頼れる場所を、一つでも多く知っていることです」


 私の言葉に、結弦さんは少しだけ目を見開いた。


「依存先を増やすことが、本当の強さになる。……結弦さんは、そのことを誰よりも深く理解していらっしゃるんですね」


「……そうかもしれません。僕は、彼という『重り』があったから、今日まで流されずに生きてこれた気がします」


 私は、プラチナを熱し始めた。

 青い炎が地金を赤く染めていく。

 結弦さんの語る「依存」は、甘えではない。それは、自分の弱さを認め、他者と繋がるための覚悟だ。

 

 私は、極細のタガネを手に取る。

 指輪の内側。誰の目にも触れない、肌に直接当たるその場所に、あの日割れた氷の感触と、彼を救った「背中」の重みを刻み込んでいく。

 

 集中が深まる。

 視界が狭まり、リングの円環の中に、私自身の記憶が混ざり合う。

 以前、私も誰かの背中を追っていた気がする。

 その背中が眩しすぎて、自分の輪郭を見失いそうになったあの感覚。

 でも、もしその背中が、私を縛る呪いではなく、支えてくれる「重り」だったとしたら。


「……できました」


 顔を上げると、大山さんが私の後ろで、感心したように頷いていた。


「いい線だ。アサミさん。君の彫る波は、冷たいはずなのに、どこか温かいねぇ」


「……そうですか。不思議ですね」

 

 結弦さんは、完成した指輪を手に取ると、内側の刻印をじっと見つめた。


「……不思議ですね。この重みが、とても心強いです。これでやっと、僕は彼女を幸せにできる気がします」


 彼は、春の陽だまりのような足取りで店を出ていった。

 

 鏡の中の自分と目が合う。

 長い襟足が、肩で小さく揺れた。

 

 私は、自分が何に依存しているのかを知っている。

 この、冷たくて硬い、裏切ることのない「仕事」という重みだ。

 

 大山さんが、また止まりかけた時計を指で弾く。

 カチ、カチ。

 

「……次は、何を作るんだい?」


「……壊れないものを。いや…壊したくないものですかね」


 私は、再びヤスリを握った。

 窓の外では、夜の風がスイートピーの香りを運んでくる。

 理解されたと錯覚した瞬間に、逃げられなくなる感覚。


 うつろうものを、なお想う。

 私はその檻の中で、今日も静かに、自分を削り続ける。

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