第22話:未完の環に、なお想う
第22話:未完の環に、なお想う
朝の光が差し込む工房は、驚くほど静かだった。
「……これ、崇さんが?」
作業台の上に置かれていたのは、一本のヤスリだった。
市販のものを、崇さん自身の手に合わせて柄を削り、刃の目を一部潰して細かなニュアンスを出せるように改造された、世界に一つしかない彼専用の道具。
その使い込まれたヤスリの横に、小さな革のケースが開いた状態で置かれていた。
「僕の、最初の『間違い』の形だ」
崇さんは、照れくさそうに、しかしどこか吹っ切れたような顔で言った。
ケースの中に入っていたのは、歪に歪んだ、お世辞にも美しいとは言えない金と銀の合金リングだった。
「20年前、修行先で天才を見て絶望した日に、自暴自棄になって作ったやつさ。地金の配合も温度管理も失敗して、気泡だらけ。……でも、これだけは捨てられなかった。僕が僕の足で歩こうとしてもがいた、最初の傷跡だからね」
崇さんは、私の顔を見ようとせず、ピンセットで小さなパーツを突いた。
「君にこれを見せるのが、僕の『答え』だよ。僕は天才じゃない。ただの、諦めの悪い凡人だ。……だから、君の荷物にはなれないし、君を縛る資格もない」
「崇さん……」
「さあ、お喋りは終わりだ。納期が詰まってるんだよ、竹川さんが明日からいなくなるなら、今日の分の給料はきっちり働いてもらわないと」
わざとらしいほど軽い口調。
それが、彼の精一杯の「建前」であり、「引き留めたい」という本音を隠すための壁なのだと、今の私にはよく分かった。
「……ふふ、そうですね。崇さんが一人になったら、一週間でデスクが書類の山になって、一ヶ月で納品遅れを出して、三ヶ月でこの店はゴミ屋敷になりますから。今日のうちにスケジュール表、組んでおきますね」
「それはさすがに僕を過小評価しすぎじゃないかな? 一ヶ月は持つよ、多分」
「一週間です。賭けてもいいですよ」
いつもの、ズレた軽口。
私たちは、それ以上、昨日までの泥沼のような感情には触れなかった。
ただ、それぞれの作業台に向かい、地金を刻む音だけが工房に響き始めた。
――シュッ、シュッ。
ヤスリが地金を削る音。
バーナーがシュゴウ、と青い炎を吐き出す音。
いつも通りの日常。
けれど、これが「最後」の日常。
夜になり、商店街の街灯がぽつぽつと灯る頃。
アサミジュエリーのシャッターは、すでに半分閉じられていた。
外からの視線を遮った薄暗い空間で、私は一本の指輪を作っていた。
ハイブランドへの転職を決意し、大山さんに「不幸になる覚悟」を説かれた私が、この場所で遺していく、最後の足跡。
「……ずいぶん、思い切った引き算だね」
いつの間にか、崇さんが私の背後に立っていた。
彼は、私が手元で転がしているプラチナのリングを、じっと覗き込んでいる。
それは、極端にシンプルなリングだった。
石もついていない。派手な彫刻もない。ただの、一本の細い環。
しかし、職人が見れば一目で分かる。
地金の密度、真円の正確さ、そして、内側の「内甲丸」の仕上げが、狂気的なまでの精度で磨き上げられていることを。
「私の理想の完成形は、まだ作れないので……」
私は手を止めず、リューターを使って指輪の内側をなぞった。
「デザインで誤魔化さない、ただの線です。今の私にできる、一番嘘のない形」
「……いい肌触りだよ。つけていることを忘れるくらい、指に馴染む」
崇さんは、理由を聞かなかった。
なぜ、最後の最後に、こんな地味なものを作っているのか。
聞かなくても、すべて分かっているから。
これが、私から彼への、そしてこの店への「答え合わせ」だった。
私は、リューターを置いた。
小さな乾いた音が響く。
沈黙が、二人の間に降りてきた。
集塵機の低い音だけが、やけに大きく聞こえる。
今、言葉にしなければ、もう二度と言えない。
でも、綺麗な言葉で飾り立てたくはなかった。
私は指輪を手のひらに載せたまま、ゆっくりと振り返り、崇さんの瞳を見た。
相変わらず、中性的な、掴みどころのない穏やかな顔。
私は、深く、息を吸い込んだ。
「……好きでした」
ほとんど、息の成分だけの声だった。
過去形。
それが、私の選んだ「間違い方」だった。
「今も好きです」と言えば、彼は私を優しさで引き留めてしまうかもしれない。
「忘れます」と言えば、それは自分の人生に対する嘘になる。
だから、過去形。
ここにいた時間と、募らせた想いを、事実としてただそこに置くための、一番不器用な告白。
崇さんは、驚いた顔をしなかった。
ただ、困ったように眉を下げて、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、切なそうに笑った。
「……うん」
肯定でもなく、拒絶でもない。
ただ、私の言葉の質量を、そのまま受け止めただけの返事。
「それで、よかったと思う」
崇さんは、静かに言葉を繋いだ。
その「よかった」という五文字は、恋の成就なんかよりも、ずっと深く、私のこれまでを全肯定してくれる響きを持っていた。
崇さんは、私が作ったリングをそっと指先で受け取り、愛おしそうに見つめた。
「……いつでも戻っておいで。ここはずっと、このまま残しておくから。僕の納期管理を怒ってくれる人がいないと、本当に困るしね」
冗談を交えた、彼の「優しさ」。
でも、私はもう、その優しさの檻に甘えるわけにはいかない。
私は、ゆっくりと、しかし明確に首を振った。
「戻ってこない覚悟で、行きます」
一瞬、工房の空気が、ピンと張り詰めた。
私の瞳にある、逃げ場のない「呪い」を、崇さんは真っ向から受け止めたようだった。
彼は、ゆっくりと、長く息を吐き出した。
まるで、自分の中にある最後の「未練」を、すべて吐き出すかのように。
「……そっか。そうだよね。……うん、思う存分、やっておいで。竹川さん」
その瞬間、私たちの間にあった「師匠と弟子」という歪な境界線は、完全に消え去った。
目の前にいるのは、一人の、対等な職人。
背中を追いかけるだけの存在から、別の荒野で同じ戦いに挑む、同志になったのだ。
私は、自分の工具を一つずつ、丁寧に鞄へ詰めていった。
これでいい。
私たちは、お互いを失いながら、お互いの人生を手に入れた。
うつろう季節の中で、変わらないものなんて何一つない。
それでも、磨き上げた地金の輝きと、この胸に刻まれた痛みの輪郭だけは、決して消えない。
夜の底で、アサミジュエリーは、静かに次の朝を待っていた。




