第21話:不幸の灯に、なお想う
第21話:不幸の灯に、なお想う
商店街の喧騒から切り離された、古いビルの三階。
大家の大山さんの自宅兼「隠れ工房」は、換気扇の回る低い音だけが支配していた。
私は、飛び出した勢いのまま、行くあてもなくこの扉を叩いていた。
「……また、派手にやってきたねぇ。亜沙美ちゃん」
大山さんは、小さなカセットコンロで餅を焼きながら、のんびりとした声を出す。
私の頬にはまだ、夜風で冷え切った涙の跡がこびりついている。
「崇さんに、言われました。……私は、彼を利用しているだけだって。自分の才能から逃げるために、彼への献身を隠れ蓑にしてるって……」
口に出すと、言葉が刃物になって再び自分の胸を突き刺す。
「……依存、だって。そう言われました」
大山さんは、ぷっくりと膨らみ始めた餅を割り箸でひっくり返した。香ばしい、けれどどこか寂しい匂いが鼻をくすぐる。
「あいつはね、不器用なんだよ。言葉を磨く技術は、地金を磨く技術の百分の一もありゃしない」
「でも、正論でした。私は、彼の一部でいることに安住していた。……彼を完璧にサポートすることで、自分という個体が評価される責任から逃げていたんです。……あんな名刺一枚で、足がすくむくらいに」
私はポケットの名刺を、今度こそゴミ箱に捨てようとして――指が止まった。
「ねえ、大山さん。私、どうすればいいんでしょう。ハイブランドに行けば、確かに私は『竹川亜沙美』になれます。でも、それは崇さんを一人にすることになる。彼がまた、あの日のように鍵を置いていなくなってしまうようで、それが怖くて」
大山さんは、焼けた餅を小皿に載せ、醤油を垂らして私に差し出した。
「アサミさん。あんた、さっきから『どっちが正しいか』『どっちが後悔しないか』ばかり考えてるだろう」
「それは……誰だってそうです」
「違うよ。職人の仕事はね、正解を探すことじゃない。……納得のいく『間違い方』を選ぶことだ」
大山さんの、節くれだった指が、私の目の前で空を切った。かつてバブルの狂乱の中で、数えきれないほどの宝石を扱い、そして最愛の人を亡くした男の手だ。
「いいかい。幸せになれる方、なんて基準で選ぶから迷うんだ。……そんなの、どっちに行ったって、結局は別の不幸が待ってるもんさ」
「……不幸、ですか」
「そうだよ。ブランドに行けば、組織のしがらみに、あんたの純粋な技術は摩耗する。ここに残れば、あいつとの共依存に、あんたの才能は窒息する。……どっちも地獄だ」
大山さんは、まるでお天気の話でもするように、淡々と絶望を口にする。
けれど、その瞳は、ルーペで石を覗き込むときのような、冷徹でいて優しい光を湛えていた。
「だからね、アサミさん。『この選択なら、不幸になってもいい』と思える方を選びなさい」
「…………」
「成功するかどうかなんて、他人の評価だ。でも、不幸の味だけは、自分だけのものだ。あいつと地獄に落ちるのが本望か。それとも、新しい場所で一人、才能という呪いと心中するのが本望か。……あんたが抱えたい『重み』は、どっちだい?」
喉の奥が、熱い。
さっき食べた餅が、胃の奥で重たい塊になっている。
私は、崇さんの隣で、彼の作品を台無しにしてしまうかもしれない恐怖。
あるいは、崇さんと離れて、自分の名前だけで立たされる荒野の孤独。
どちらの不幸が、より「私らしい」だろう。
「……大山さん。崇さんは、今、何を思っているでしょうか」
「さあね。あいつも今頃、自分の不甲斐なさに、作業台を殴ってるんじゃないかい。……あいつに、引退した私から言えることはもう何もない。ただ一つ、粋な職人として、最後の答えを出せよとだけ、さっきLINEしておいたよ」
「LINEって……大山さん、スマホ使えるんですか?」
「失礼な。バブルの頃はショルダーバッグみたいな電話を担いでたんだ、これくらいお手の物だよ。スタンプだって、ほら…このスタンプ可愛いだろ?」
大山さんが茶目っ気たっぷりに笑う。
そのズレた明るさに、私の心のささくれが、ほんの少しだけ滑らかになった。
同じ頃、アサミジュエリーの工房。
崇は、亜沙美が飛び出した後の静寂の中で、一人、作業台に突っ伏していた。
手元には、大山からの短いメッセージが表示されたままの画面。
『逃げるなよ。道具が泣いている。』
崇は、ゆっくりと顔を上げた。
視界に入ったのは、亜沙美が磨き上げていた銀の試作品。
彼女の指が、幾度となく往復したであろうその面は、鏡のように崇の情けない顔を映し出していた。
「……依存していたのは、僕の方だ」
彼女がいなければ、完成しない。
いつの間にか、彼女の「補佐」という甘い毒に浸かっていたのは、自分だった。
彼女の才能を恐れていたのではない。
彼女の才能が、自分を追い越して、遠くへ行ってしまうことが、ただ、怖かったのだ。
「……粋じゃ、ないな」
崇は、引き出しの奥から、ずっと隠していた小さな革のケースを取り出した。
明日、彼女が戻ってくるか、それともこのまま消えてしまうかはわからない。
けれど、職人として。
自分ができる唯一の「告白」は、言葉ではないはずだ。
崇は、バーナーに火をつけた。
青い炎が、暗い工房を、静かに、しかし烈しく照らし始める。
「……不幸になる覚悟なら、とっくにできてるんだ。」
溶け始める金属を見つめながら、崇の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
翌朝。
アサミジュエリーのシャッターが開く音に、商店街の鳩が数羽、羽ばたいた。
私は、店の前に立っていた。
目の下にクマを作り、髪を少し乱したままの崇さんが、そこにいた。
「……おはようございます。崇さん」
「……ああ。おはよう、竹川さん」
二人の間を、ぬるい春の風が吹き抜ける。
昨日の怒鳴り合いが嘘のような、静かな朝。
けれど、私たちは知っている。
一度ほどけた糸は、もう、前のようには繋がらない。
「入って。……見せたいものがある」
崇さんの背中について、私は工房に入る。
私たちは、新しいステップへ進む。
それが、たとえ幸福への道ではなくても。
うつろうものを、なお想う。
私は、この痛みとなら、歩いていける。




