第20話:ほどける火に、なお想う
第20話:ほどける火に、なお想う
「……それ、どこで手に入れたの」
崇さんの声が、バーナーの「コーッ」という低い燃焼音に混じって響いた。
心臓が、喉の奥で跳ねる。
私は咄嗟に、ポケットの中で名刺を握りしめた。けれど、遅すぎた。
昼休憩、私が席を外した隙に、ポケットから滑り落ちたのか。あるいは、彼が最初から気づいていたのか。
作業台の上、私の金槌の横に、あの紺色の名刺が置かれている。
「……今朝、お話ししようと思っていたんです。でも」
「でも?」
「タイミングが、なくて」
崇さんは、手にしていたピンセットを置いた。カチリ、という金属音が、静かな工房にやけに大きく響く。
彼は私を見ない。ただ、磨きかけのプラチナリングを見つめたまま、独り言のように言った。
「タイミングなんて、本当はいつでもあったはずだよ。……君がそれを、拒んだだけで」
「そんなこと、ありません!」
思わず声が荒くなった。
違う。私はただ、この場所を壊したくなかっただけ。彼に「行け」と言われてしまうのが、怖かっただけなのに。
「……竹川さん。君はさ、僕のことを信じていないんだね」
「え……?」
「僕が君の成功を喜ばないと思っているのか、それとも。……君がいないと、この店が立ち行かないとでも思っているのか」
崇さんが、ゆっくりとこちらを向いた。
その瞳には、怒りよりも深い、底の見えない寂しさが宿っていた。
「違います、そんな慢心なんて……私はただ、崇さんの隣にいたくて」
「隣にいて、何をしたいの? 僕の影に隠れて、安全な場所で石を留め続けること? ……それは職人じゃない。ただの依存だ」
「依存……」
鋭いナイフで、一番柔らかい場所を裂かれたような衝撃だった。
私は言葉を失い、立ち尽くす。
崇さんは、ため息さえつかずに続けた。
「君は、僕が逃げた理由を『才能への恐怖』だと言ったね。……ああ、その通りだよ。僕は怖かった。でも、今の君は、かつての僕よりずっと質が悪い」
「……どういう、意味ですか」
「君は自分の才能を、僕への『献身』という名前で殺そうとしている。……自分が傷つかないために、僕を利用しているんだ」
「利用……!? 私は、崇さんのために……崇さんのジュエリーを完璧にするために、今まで!」
「それが、僕への侮辱だって、どうして気づかないかな」
崇さんの声が、一段と低くなった。
「僕の作品は、僕一人で完結するものだ。君がいなきゃ完成しないような不完全なものを、僕は客に出した覚えはないよ」
目の前が、真っ白になった。
これまで私が積み上げてきた、彼との「二人三脚」の日々。
彼が飲み残したコーヒー、乱れたヤスリの整頓、彼が気づかない細部の微調整。
それらすべてが、彼にとっては「余計な世話」でしかなかったというのか。
「……そうですか。……わかりました」
私は、震える手で名刺をひったくった。
「崇さんは、一人で大丈夫なんですね。私がいてもいなくても、この店は何も変わらない。……そう言いたいんですね」
「……そうだと言ったら?」
「……大嫌いです」
感情が、制御を失って溢れ出す。
「自分の弱さを隠すために、他人を突き放して。……そうやって、一生一人で、完璧な箱の中で死んでいけばいいんです。……私は、行きます。世界が待ってくれてますんで!」
私は道具箱を掴むと、振り返らずに工房を飛び出した。
背後で、ガシャン、と何かが落ちる音が聞こえたような気がしたけれど、足を止めることはできなかった。
商店街は、夕暮れの色に染まっていた。
買い物客の笑い声、自転車のベル。
どこまでも日常的な風景の中で、私の頬を伝う涙だけが、ひどく熱くて、場違いだった。
駅のホーム。冷たいベンチに座り、私は名刺をじっと見つめる。
まぶしい世界への招待状。
そこに行けば、私は「竹川亜沙美」という一人の職人になれる。
誰の影でもない、自分の光を放てる。
けれど。
名刺を握る指先が、不思議なほど冷え切っていた。
崇さんは、ずるい。
あんなに冷たい言葉を投げつけながら、どうしてあんなに、泣きそうな顔をしていたのか。
私は、この人となら。
頭の片隅で、大家の大山さんの言葉がリフレインする。
『後悔しない方を選ぶなんて、そんなつまらないことは考えちゃいけないよ』
私は名刺をポケットに仕舞い、夜の線路を見つめた。
うつろうものを、なお想う。
私たちの継ぎ目は、もう、元通りには戻らないほど、大きく裂けてしまった。
けれど、その裂け目から差し込む光が、今はひどく、痛くて――残酷なほど、美しかった。




