第19話:まぶしい風に、なお想う
第19話:まぶしい風に、なお想う
「アサミジュエリー」の朝は、いつもと変わらない…はずだった。
シャッターを上げる乾いた音。商店街の角にあるパン屋から漂ってくる香ばしい匂い。そして、工房の奥で静かに火を待つ、プラチナの冷たい輝き。
けれど、その朝、店の前に立っていたのは、大家の大山さんでも、近所の常連客でもなかった。
「……竹川亜沙美さんですね?」
パリッとした濃紺のスーツに身を包んだ女性が、名刺を差し出した。
世界中に店舗を持つ、誰もが知るハイエンド・ジュエリーブランドの名がそこにはあった。
「私たちのクリエイティブ・ディレクターが、先日、貴女がリフォームされた指輪を拝見しまして。……ぜひ一度、お話をさせていただけないかと」
私は、自分の手元を見た。
爪の間には、昨日磨いた銀の粉が少しだけ残っている。
隣の作業台にいるはずの、崇さんはまだ来ていない。今日は少し遅れると連絡があったのだ。
「私に、ですか?」
「ええ。貴女の石留めの技術、そして何より、あの『不完全さを残しながらも完成されている』デザインの解釈。……今の私たちのブランドに、最も欠けているピースなんです」
提示された条件は、今の私には想像もつかないほどのものだった。
専用の個室工房、最新の設備。そして、世界を舞台にした発表の機会。
それは職人として、これ以上ない「光」の招待状だった。
「……少し、考えさせてください」
「もちろんです。ただ、世界は待ってくれません。良いお返事を期待しています」
女性が去った後、私は一人、工房に立ち尽くした。
古い作業台。使い慣れたヤスリ。崇さんが淹れっぱなしにしていった、底に少しだけ冷めたコーヒーが残るカップ。
ここは、私の世界のすべてだった。
でも、外の世界は、もっと広くて、もっと――まぶしい。
「……おはよう。竹川さん」
背後で、聞き慣れた声がした。
崇さんが、少し眠そうな顔をしてシャッターをくぐってくる。
「……崇さん。あの」
「ん? 何かあった?」
私は、預かった名刺を隠すようにポケットにねじ込んだ。
なぜ隠したのか、自分でもわからない。ただ、今のこの「日常」を、一瞬でも壊したくなかった。
「……いえ、何でもないです。大山さんが、また変な差し入れを持ってくる予感がしただけです」
「はは、それはありそうだね。今日は僕も、少し甘いものが食べたい気分だよ」
崇さんはいつものように着替え、自分の席に座る。
バーナーに火を灯し、金属を熱する音が聞こえてくる。
その横顔は、昨日の「手加減しない」という宣言通り、厳しく、そして美しかった。
私は、自分の作業台に向かう。
けれど、さっきまで確かに見えていたヤスリの先が、なぜか少しだけ、ぼやけて見えた。
「……ねえ、崇さん」
昼休み、大山さんが持ってきた豆大福を頬張りながら、私はわざと明るい声で切り出した。
「もし、私が。……もしですよ? もっと広い場所で、もっとすごい機械を使って、ジュエリーを作れるとしたら。……崇さんは、どう思いますか?」
崇さんは豆大福を咀嚼する手を止め、ゆっくりと私を見た。
「……いいんじゃないかな。職人にとって、より良い環境は、より良い作品を生む。それは当然のことだよ」
その言葉は、どこまでも正論だった。
正論すぎて、喉の奥がキュッと締まる。
「……突き放すんですね」
「突き放してなんていないよ。……君がどこに行こうと、君の技術は君のものだ。場所が変わるだけで、君の作るものが変わるわけじゃない」
崇さんは、お茶を一口飲み、視線を窓の外へと向けた。
「僕はね、竹川さん。……君がこの小さな箱の中に閉じ込められているのを見るのが、時々、怖くなるんだ」
「……どういう意味ですか?」
「君の才能は、僕が思っていたよりもずっと、遠くまで飛べる翼を持っている。……それを、僕という古い重り(アンカー)で縛っておいていいのか、ずっと考えているんだよ」
崇さんの声は、凪いだ海のように静かだった。
「寂しくないんですか? 私がいなくなっても」
「寂しいよ。……でも、寂しさと、君の未来は、別の話だ」
それは、最上級の優しさだった。
そして、今の私にとって、何よりも残酷な拒絶だった。
「……崇さんは、ずるいです」
私は食べかけの豆大福を置き、立ち上がった。
「そうやって、いつも綺麗にまとめようとする。……私の気持ちなんて、一つも聞いてくれないのに」
「竹川さん……」
「……午後の仕事、戻ります」
私は工房に逃げ込んだ。
背後で、崇さんが小さく溜息をつくのが聞こえた。
夜。
工房の明かりを落とし、一人で帰り支度をしていると、大家の大山さんがふらりと現れた。
「……アサミちゃん。今日は、随分と目が尖ってるねぇ」
「大山さん。……私、どうすればいいんでしょう」
私は、さっきの名刺を大山さんに見せた。
大山さんはルーペも使わず、その名刺をじっと見つめた。
「ほう。……いい風が吹いてきたじゃないか」
「風なんて、いりません。……私は、ここで、あの人の隣で磨いていたいだけなんです」
「……本当にそうかい?」
大山さんは、私の手を取った。
指先のタコ、小さな火傷の跡。
「君のこの手は、もう『弟子の手』じゃない。一人の『表現者の手』だ。……表現者は、自分の光を一番美しく見せてくれる場所を、本能的に知っているはずだよ」
「……でも、あの人を置いていくなんて」
「置いていく? ……バカを言いなさい。職人はね、道具が離れても、その道具が残した『跡』で会話ができるんだよ」
大山さんは、暗い店内の奥にある、使われなくなった古い作業台を指差した。
「あの男も、一度は逃げた。……でも、逃げた先で、君の顔を思い浮かべながら花を並べていたはずだ。……君たちは、一緒にいようが離れていようが、結局は『ジュエリー』という呪いから逃げられないんだよ」
大山さんは、私の肩をポン、と叩いた。
「……選ぶのは、君だ。だがね、亜沙美ちゃん。……後悔しない方を選ぶなんて、そんなつまらないことは考えちゃいけないよ。……職人は、選んだ後で、その選択を『正解』に磨き上げるのが仕事なんだから」
大山さんが去った後、私は月明かりが差し込む工房を見渡した。
崇さんの作業台の上には、使い込まれたヤスリと、磨きかけの指輪が置かれている。
明日になれば、また彼はここに座り、火を灯すだろう。
外から吹き込んできた夜風は、驚くほどまぶしくて、冷たかった。
明日、私は崇さんに本当のことを話そう。
私は、名刺をきつく握りしめる。
うつろうものを、なお想う。
私たちの「継ぎ目」が、これ以上、歪んでしまわないうちに。




