第18話:重なる影に、なお想う
第18話:重なる影に、なお想う
「崇さん、火の入れ方が少し、早いです」
亜沙美の静かな声が、工房の熱気に混じった。
私はバーナーの炎を絞り、手元のプラチナから視線を外す。
隣に立つ彼女は、以前のような「教えを請う弟子」の目をしていない。かといって、私を拒絶しているわけでもない。ただ、淡々と、等距離の場所から事実を指摘している。
「……そうだね。少し、急ぎすぎたかな」
苦笑いして火を消すと、キン、と金属が冷える小さな音がした。
店に戻って一週間。
「アサミジュエリー」には、かつてのような二人きりの時間が流れている。朝、シャッターを開け、床を掃き、コーヒーを淹れる。大山さんが時折、賞味期限の怪しい焼き菓子を持って現れ、たわいもない世間話をして去っていく。
表面上は、何も変わっていない。
けれど、流れる空気の「密度」が、以前とは決定的に違っていた。
「……崇さん、その。今の、怒ったわけじゃないんです」
亜沙美が、私が置いたピンセットを丁寧に並べ替えながら、視線を伏せて言った。
「分かっているよ。……君の指摘は、正しい」
正しい。それが、何よりも私の胸に薄く、鋭い傷跡を残す。
かつての彼女は、私の所作をすべて「正解」として飲み込んでいた。今の彼女は、私の技術の中に「迷い」や「衰え」を見つけ出し、それを隠そうとはしない。それは職人として誠実な姿であり、私が彼女に望んだ自立の形でもあった。
なのに、どうしてこんなに、居心地が悪いんだろう。
「崇さん、今日のお客さんのリフォーム。……デザイン画、少しだけ書き換えてもいいですか」
「ああ、構わないよ。君の感覚の方が、今の時代に合っている」
私がそう答えると、亜沙美は一瞬だけ唇を噛み、すぐに出したばかりのスケッチブックを閉じた。
「……そういうの、寂しいです」
「え?」
「『君の方がいい』って、突き放されるの。……崇さんは、私と競うことすらやめてしまったんですか?」
彼女の瞳には、かつての「憧れ」の残滓と、現在の「失望」が混ざり合っていた。
私は、何も言えずに立ち尽くす。
花屋で過ごした時間は、私から牙を奪った。
「完璧でなければならない」という呪いから逃げ出した代償に、私は自分の輪郭を、ぼんやりと優しいものに書き換えてしまったのだ。
そこへ、店のベルが鳴った。
「ごめんよ、お取り込み中かな?」
現れたのは大山さんだった。今日は珍しく、菓子袋ではなく、古い木箱を抱えている。
「大山さん、どうしたんですか。そんな神妙な顔して」
亜沙美が少しだけ声を弾ませて、空気を変えようとする。
「いやね。隠居部屋を整理してたら、これが出てきてね。……崇くん、君に預けておきたくなったんだよ」
大山さんが広げた木箱の中には、年季の入った鋼の金槌が並んでいた。
それは、かつて大山さんが現役の職人だった頃、命のように扱っていた道具たちだ。
「……これを、私に?」
「今の君の手は、花を愛でる手だ。それはそれで美しい。だが、この店に座るなら、もう一度『鉄を叩く手』に戻らなきゃならん。……亜沙美ちゃんに追い越されるのが怖いかい?」
大山さんのルーペのような鋭い瞳が、私の内側を覗き込む。
「……怖いですよ。彼女の中にいる『怪物』が、僕を食らい尽くすのが」
初めて、口にした本音だった。
亜沙美が息を呑む音が聞こえた。
「崇くん。怪物はね、外にいるんじゃない。君が勝手に作り上げた、君自身の『理想』という名の化け物だよ。……彼女はただ、君の隣で呼吸を合わせたいだけなのに、君が勝手に窒息しているんだ」
大山さんは金槌を一丁、作業台に置くと、ひょいと肩をすくめた。
「まあ、豆大福を食べる余裕があるうちは大丈夫だ。……亜沙美ちゃん、お茶を淹れておくれ。今日はとびきり渋いやつをね」
大山さんが奥のソファへ向かうと、工房に二人だけの沈黙が戻った。
私は、目の前に置かれた古びた金槌を手に取る。
ずしりと重い。
亜沙美は、隣でじっと私の手元を見つめていた。
「……崇さん」
「……何かな」
「私、崇さんの技術を奪いたいわけじゃないんです。……ただ、一人で削っている時に、隣で崇さんが火を扱っている。その『音』が、私にとっての正解なんです」
彼女は、私の右手に、自分の右手をそっと重ねた。
熱い。
金属を削り、磨き続けてきた彼女の指先は、今の私のものよりずっと硬く、そして生きていた。
「……わかったよ。竹川さん」
私はゆっくりと、彼女の手の下で金槌の柄を握り直す。
「明日からは、手加減しない。……君が泣き言を言うくらい、高い壁に戻ってみせるよ」
「……はい。望むところです」
亜沙美が、ようやく悪戯っぽく笑った。
けれど、私たちは知っている。
一度壊れ、また繋ぎ直された指輪に、以前とは違う「継ぎ目」が残るように。
私たちの関係もまた、以前の「師弟」には戻れないことを。
重なり合う二人の影は、工房の光の中で、歪に、しかし確かに一つの形を作っていた。
うつろうものを、なお想う。
私たちは、新しい「歪み」を愛するために、再びヤスリを手に取る。




