第17話:陽光明ける日々に、なお想う
第17話:陽光明ける日々に、なお想う
「……崇、さん……?」
その声は、震える細い弦のようだった。
店の扉は開け放たれたまま。暗闇に溶けていた私の輪郭に、工房の温かなオレンジ色の光が、容赦なくその所在を突きつける。
逃げようと思えば、今でも間に合った。一言も発さず、商店街の闇に紛れてしまえばいい。花屋の店員として、穏やかな死を待つような日常に戻ることは容易だった。
けれど、視線の先に立つ彼女の瞳が、それを許さなかった。
亜沙美の右手には、まだヤスリが握られていた。
その指先は、私がかつて教えていた頃よりもずっと、金属の粉で黒ずんでいる。彼女がこの数年、どれほどの熱量で「不在」という硬い石を削り続けてきたのか、その手元を見るだけで痛いほど伝わってきた。
「……ただいま、竹川さん」
口をついて出たのは、あまりにもありふれた、そしてあまりにも身勝手な言葉だった。
「……遅い、ですよ。崇さん」
彼女は泣き出すでも、怒鳴り散らすでもなかった。ただ、ヤスリを置く手元が微かに震え、カチリと金属的な音が静かな店内に響いた。その一音が、私の心臓を一番細いドリルで穿つ。
「出張、長すぎます。お土産の一落もなしに……どの面を下げて戻ってきたんですか」
「……本当だね。面目ないよ」
無理に作った苦笑いが、自分でもわかるほど歪んでいる。
大家の大山さんは、そんな二人の空気を楽しむように、コンビニ袋から豆大福を取り出し、作業台の上に無造作に置いた。
「さあさあ、再会の祝辞はそれくらいにして。崇くん、突っ立ってないで入りなさい。ここは君が借りた場所だろう。家賃は彼女が律儀に払い続けているがね」
促されるまま、私は数年ぶりに「アサミジュエリー」の敷居を跨いだ。
一歩踏み込むたびに、鼻腔を突くのは懐かしい薬品と金属の匂い。そして、私が去った後、彼女が一人で積み上げてきた「時間」の匂いだ。
工具の配置が変わっていた。
糸鋸の刃は、私よりも少しだけ高く、彼女の視線に合わせた位置に調整されている。
磨き機の周りには、使い古された軍手が整然と並び、そこには「師匠の模倣」ではない、一人の自立した職人の生活があった。
「……崇さん、お茶を。大山さん、座ってください」
亜沙美は努めて冷静に、けれどどこか硬い所作で湯呑みを並べた。
私は、自分が置いていったはずの「店主」の椅子に座る勇気がなく、客用の小さな丸椅子に腰を下ろした。
「花屋、なんですね。今は」
亜沙美が私の手元を見つめて言った。
ヤスリだこが消え、少しだけ柔らかくなった私の指先。それは職人として「戦うこと」を放棄した証左でもある。
「ああ。……別の世界が見たかった、なんてのは嘘だ。ただ、怖かったんだよ。君の中に、僕が到底辿り着けない『光』を見てしまった。それを隣で見守るほど、僕は強くなかったんだ」
「……卑怯ですね」
彼女の言葉は静かだったが、明確な温度を伴っていた。
「私は、崇さんの背中を見て、あそこへ行きたいと思って走ってきました。なのに、一番の目標が突然いなくなって。……残された私は、どうすればいいか分からなかった。だから、崇さんの残した技術を、毎日なぞるしかなかったんです。ここを、崇さんがいつ戻ってもいいように、一ミリも変えないままでいました」
彼女の視線が、棚に並んだ古い原型に向く。
「でも、ある日気づいたんです。崇さんを待っているだけじゃ、私は崇さんの影にしかなれない。崇さんが怖がった『私』を、私が受け入れなきゃ、この店は死んでしまうって」
彼女は、作業台の上に置いてあった製作途中の指輪を、私の前に差し出した。
それはプラチナの、極めて細いアームのリングだった。
「見てください。……今の、私の仕事です」
私は、震える手でその指輪を受け取った。
ルーペを使わずとも分かった。
そこにあるのは、完璧な対称性ではない。
むしろ、ほんの僅かに、故意に仕込まれた「揺らぎ」がある。
金属という冷たい物質に、体温が宿っているような、不思議な生命感。
かつての私なら、この揺らぎを「未熟」として排除しただろう。
けれど、今の私には分かる。
これは、素材の意思を尊重し、対話した結果生まれる、究極の「調和」だ。
「……完敗だよ、竹川さん」
私は溜息を吐いた。それは、何年も胸に詰まっていた重石を吐き出すような、不思議と晴れやかな溜息だった。
「君はもう、僕の教えることなんて何もない。……それどころか、僕の方が教わりたいくらいだ」
「……何、言ってるんですか。崇さんがいなくて、私がどれだけ苦労したと思ってるんですか。納期は遅れるし、大山さんは勝手に駄菓子を持ち込むし……」
亜沙美の瞳に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。
「崇さん、私はまだ、この指輪の石留めが納得いかないんです。……少しだけ、見てくれませんか。師匠として、ではなく……『アサミジュエリー』の職人として」
彼女は、自分が座っていた店主の椅子を、そっと引いた。
かつての上下関係ではない。
何かを失い、何かを得て、また同じ場所に辿り着いた二人の、新しい距離感。
「……ヤスリ、借りてもいいかな」
「……どうぞ。でも、花屋さんの手で、錆びさせないでくださいね」
私は、重い腰を上げて、かつての聖域へと足を踏み入れた。
椅子に座ると、視界が少しだけ高くなった気がした。
隣では、亜沙美が同じように作業椅子を引き寄せ、私の手元をじっと見つめている。
「崇さん。……おかえりなさい」
今度は、嘘ではなかった。
「ああ。……ただいま、竹川さん」
外では、春の夜風が商店街を通り抜けていった。
うつろうものを、なお想う。
私たちの新しい「火」が、今、静かに青く燃え始めた。




