第16話:かすかな光に、なお想う
第16話:かすかな光に、なお想う
「……浅見、さん……ですよね?」
店先のペチュニアにじょうろで水をやっていた私は、その声に動きを止めた。
振り返ると、そこには見覚えのある、けれど少しだけ記憶よりも大人びた表情の青年が立っていた。
「み、水川さん」
三年前、凍った川で親友に助けられた記憶を抱え、婚約指輪を選びに来た青年だ。
彼は驚いたように目を丸くし、それからほっとしたような、同窓生にでも会ったかのような懐かしい笑みを浮かべた。
「やっぱり。雰囲気が少し変わられたから自信がなかったんですけど、その、水のやり方が丁寧すぎるというか……。一滴も外に漏らさないように集中されてる姿を見て、確信しました」
「……お恥ずかしい。今はただの花屋の店員ですよ」
私は苦笑してじょうろを置いた。
彼は今、この近くの福祉施設で働いているのだという。かつて「自立とは依存先を増やすことだ」と語った彼は、今では誰かの依存先になるための、逞しい背中を手に入れていた。
「実は先日、久しぶりにあのお店……アサミジュエリーに伺ったんです。結婚三周年の記念に、妻へ小さな石を贈ろうと思って」
心臓が、一つ、大きな脈を打った。
「……そうでしたか。あそこは、もう別の……」
「ええ。店主の方が、女性になっていて驚きました。お弟子さんですか? すごく……凛とした、いい顔で作業をされていましたよ」
水川さんは、私の動揺に気づかないまま、続ける。
「失礼ながら、以前の浅見さんの技術をなぞっているだけなのかな、なんて思って入ったんです。でも、違いました。彼女の打つ刻印は……なんて言うか、迷いがなくて。まるで、そこに誰かがいることを確信して打っているような、温かい音がしたんです」
迷いがない。
かつて、私の隣で「自分は道具でいい」と笑っていた彼女が。
私の残した不完全な地図を捨て、自分自身の足で、あの工房に立っている。
「彼女、言っていましたよ。『店主は今、長期の出張に出ていて、私が留守を預かっているんです』って。嘘だってことは、彼女の真剣な目を見れば分かりましたけど……でも、不思議と信じたくなりました。あの店は今も、浅見さんの場所なんだって」
水川さんが去った後も、私は濡れたコンクリートを見つめたまま立ち尽くしていた。
逃げ出したのは、僕の方だ。
彼女の中に宿る、僕には決して届かない「怪物」に怯えて。
彼女が僕を追い越していく瞬間を、隣で直視する勇気がなかった。
『留守を預かっている』。
そんな残酷で、優しい呪いを、彼女は自分にかけて、あの日から一度も火を消さずに待っているのか。
「……浅見さん、顔色が悪いわよ? 今日はもう上がっていいわ」
店主の気遣いに、私は絞り出すような声で「すみません」と返した。
気がつくと、私は電車に乗っていた。
一駅ごとに、景色が「あの日」の色に近づいていく。
商店街の外れ。古びたビルの角を曲がると、暗闇の中に、一点だけ、柔らかい電球の色が浮き上がっていた。
アサミジュエリー。
看板は、私が作った時のまま、少しだけ角が丸くなっている。
私は、向かい側の路地の影に身を潜めた。
ショーケース越しに、一人の女性の背中が見えた。
セミロングの髪を後ろで無造作に束ね、顕微鏡を覗き込んでいる。
彼女は、かつての私のように、丸まった背中で作業をしていた。
けれど、その指先の動きは、私の知っている「従順な弟子」のものではなかった。
金属と対話し、素材の意思をねじ伏せるのではなく、寄り添いながら形を引き出していく。
それは、私が二十年かけても辿り着けなかった、職人の「極北」の姿だった。
「……ひどいな」
独り言が、夜の空気に溶ける。
彼女の技術は、私の不在という「欠落」を栄養にして、より深く、より鋭く、美しく変貌していた。
私が彼女を縛っていたのだ。
「師匠」という枠組みが、彼女の翼を折り、私の模倣品に留めていた。
「おやおや。泥棒かと思ったら、ただの家出息子じゃないか」
背後から、聞き慣れた、ひどくのんきな声がした。
振り返ると、大家の大山さんが、コンビニの袋をぶら下げて立っていた。
「大山、さん……」
「入らないのかい? 今日の差し入れは、彼女が好きな豆大福だよ。半分、分けてやってもいいが」
「……いえ。僕は、ただ」
「逃げた場所を、確認しに来たのか」
大山さんのルーペのような鋭い目が、私の胸の奥を射抜く。
「いいかい、崇くん。あの子が今、何を削っているか分かるか。……君が残した『不在』という、一番硬い石だよ。それを一生懸命磨いて、光らせようとしている。あんな無茶な仕事、職人なら止めてやるのが筋だろう?」
大山さんは、私の肩をぽんと叩き、そのまま店の扉を開けた。
「おーい、亜沙美ちゃん。夜食だぞ。……おや、手が止まった。集中が切れたな?」
開いた扉から、工房の匂いが溢れ出してきた。
松脂と、金属の焦げる匂い。そして、亜沙美が好んで使っていた、微かなシトラスの香料。
店の中から、彼女が立ち上がる気配がした。
「大山さん、もう……。ちょうど良いところだったのに」
その声を聞いた瞬間、私の足は、逃げ出すことも、踏み出すこともできなくなった。
影の中に潜む私と、光の中に立つ彼女。
うつろうものを、なお想う。
私は、自分が手に持っているものが、もう花を束ねるハサミではなく、彼女の涙を拭うための、あるいは自分の傲慢さを削り落とすためのヤスリであってほしいと、切に願っていた。
「……大山さん、外に誰か、いらっしゃいます?」
彼女の視線が、暗闇を向く。
一秒が、永遠のように引き伸ばされる。
かすかな光の届く場所で、私たちの新しい物語が、音を立てて動き出そうとしていた。




