第15話:名もなき花に、なお想う
第15話:名もなき花に、なお想う
商店街の喧騒から三つほど角を曲がると、そこだけ空気の密度が変わる場所がある。
色とりどりの花が溢れ出し、湿った土と、どこか甘やかで青い香りが漂う花屋。
その店の隅で、私は膝をつき、バケツの水を替えていた。
「……あ、浅見さん。そっちのバラ、水揚げ終わったらこっちの整理もお願いできる?」
「はい。すぐやります」
私は短く答え、軍手越しに茎の感触を確かめる。
棘を落とし、葉を整理する。その一連の動作に、思考は必要ない。
ただ、指先が覚えているリズムに従うだけだ。
花屋の仕事は、ジュエリーの仕事と似ているようで、残酷なほどに違っていた。
宝石は、どれほど時間が経ってもその形を失わない。磨けば光り、熱を加えれば形を変え、永遠を誓う器になる。
けれど、花は違う。
今日、最も美しく咲き誇っているこの百合も、三日後には萎れ、一週間後には茶色く濁り、捨てられる運命にある。
形に残らない。責任を負わなくていい。
それが、今の私には救いだった。
「浅見さんって、本当に手際がいいわよね。なんだか、花を扱っているっていうより、精密機械を組み立ててるみたい」
店主の女性が笑いながら通り過ぎる。
私は愛想笑いすら返せず、ただハサミを動かした。
切り口を潰さないように、一息に。
その断面の鋭さを、店主は「機械的」と呼び、私は「逃避」と呼ぶ。
夕暮れ時、一人の男性客が店に迷い込んできた。
くたびれたスーツを着た、定年間近といった風貌の男性だ。彼は並んでいる花を、困ったように眺めていた。
「……あの、すみません。どれがいいんでしょうか」
「どなたかへの贈り物ですか?」
私は立ち上がり、エプロンで手を拭いた。
「ええ。家内に。……今日、退職しましてね。何かこう、華やかなものをと思ったんですが、どれも綺麗すぎて、かえって申し訳ないような気がして」
男性は、自分のゴツゴツとした、節くれだった指を見つめた。
「四十年間、工場で旋盤を回してきました。油と鉄の匂いしかしない毎日でね。こんな綺麗な花を持つのも、なんだか面映ゆくて」
旋盤。鉄。
その単語が、私の胸の奥に眠っていた「金属の記憶」を微かに揺らす。
私は無意識に、自分の右手の親指をなぞった。かつて、酸素バーナーの熱で出来た小さな火傷の跡は、もうほとんど消えかかっている。
「……鉄を削ってきた手は、とても誠実な手ですよ」
気づけば、私は口を開いていた。
「花が綺麗すぎるのは、それが『一瞬』だからです。でも、あなたが積み上げてきた四十年の時間は、もう、あなたの指そのものに形として残っている。……形に残らないものを選ぶなら、少しだけ、土の匂いがするものがいいかもしれません」
私は、純白の大きな花ではなく、あえて少し癖のある、けれど生命力に溢れたワイルドフラワーを手に取った。
「本当は、逃げ切れると思っていたんだ。
宝石という『正解』を出す世界から。誰かの人生の重荷を、小さな貴金属に預けられるあの場所から。
でも、どこまで逃げても、僕は僕を捨てられない。
花を切るハサミの角度に、茎を束ねる麻紐の結び目に、染み付いた『職人』が顔を出す。
亜沙美さんのような、天に愛された才能が『光』だとするなら、僕のような泥臭い努力は、ただの『影』だ。
影は、光が強ければ強いほど、濃く、深く、足元にまとわりつく。
僕は、彼女の隣で、自分の影に飲み込まれるのが怖かっただけなんだ」
「……これでお願いします」
男性は、私が束ねた花束を受け取った。
その時、彼の節くれだった指が、私の指先に触れた。
硬く、乾いた、働く男の手。
「ありがとう。……お兄さん、あなたも、以前は何かを『作って』いた人でしょう?」
私は、息を呑んだ。
「……どうして、そう思われますか」
「花を束ねる時の、目つきですよ。何かを慈しんでいるっていうより、その物の『芯』を探り当てようとしている。……いい目だ」
男性は満足そうに笑い、店を出て行った。
店内に、再び静寂が戻る。
私は、自分の手を見つめた。
指先には、花の蜜と、微かな青臭い匂い。
けれど、その奥に、どうしても消えない金属の匂いを嗅ぎ取ってしまう。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見るまでもない。
大家の大山さんからの着信か、あるいは。
私は電話を取らず、ただ、使い古された剪定ハサミを置いた。
店の外では、茜色の夕暮れが、世界を平等に染め上げている。
うつろうものは、美しい。
けれど、うつろわないものを知ってしまった人間は、どうやってこの「一瞬」を愛せばいいのだろう。
私はまだ、その答えを持ち合わせていない。
「……浅見さん、そろそろ閉店よ」
「はい。……今、行きます」
私は、名もなき花たちの残骸を片付けるために、再び背中を丸めた。
うつろうものを、なお想う。
私の逃避行は、まだ終わる気配を見せなかった。




