第14話:不屈の志に、なお想う
第14話:不屈の志に、なお想う
三月の風は、まだカミソリのように冷たい。
商店街の入り口にある温度計は5℃を指していたが、アサミジュエリーの店内だけは、バーナーの熱気と微かな沈丁花の香りで満たされていた。
ガサガサ、と紙袋の鳴る音がして、大家の大山さんが顔を出す。
「おーい、アサミちゃん。今日はこれ、持ってきたよ。今朝採れたてのジャガイモだ」
「大山さん、いつもありがとうございます」
私は顕微鏡から目を離さずに答える。
崇さんがいなくなってから、二週間。
作業台に向かう私の背中は、以前よりも少しだけ丸くなったかもしれない。
「茹でて塩振って食うと、元気が出るぞ」
「お気持ちだけ。今は手が離せないんです」
その時、店のドアに吊るされた真鍮のベルが、控えめに、けれど重厚な音を立てた。
入ってきたのは、黒い喪服のようなコートを羽織った女性と、その影に隠れるようにして立つ少女だった。
「……いらっしゃいませ」
私が顔を上げると、女性――佐倉恵さんは、一瞬だけ視線を泳がせた。
その瞳は、ひどく乾燥していた。泣き疲れたあとの、何も映したくないという静かな拒絶。
「あの……修理をお願いしたいんです。でも、これ……直るものなのかどうか」
彼女が震える手でカウンターに置いたのは、布に包まれた「何か」だった。
広げられた瞬間に見えたのは、もはや円形ですらない、無残にひしゃげたプラチナの塊。
ところどころに鋭い切断跡があり、表面は深い傷で覆われている。
「……結婚指輪、ですね」
私が呟くと、恵さんは小さく頷いた。
「主人は、ラグビー選手でした。……剛と言います。スクラムの要で、どんな相手にも決して背中を見せない人でした。……でも」
彼女の言葉が、ふっと途切れる。
「……主人は、数トンのスクラムを押し返すために人生を捧げてきました。鍛え上げた体も、不屈の志も、彼の誇りだった。……でも、車に轢かれそうになった娘を庇って……。…その指輪はレスキューの方が、指から外すために切断したんです。もう、指輪の形なんてしていなかったから」
プラチナは強固な貴金属だ。けれど、数トンの質量という「物理法則」の前では、人の願いも約束も、ただの物質として等しく蹂躙される。
私はそれをそっと持ち上げた。
ずっしりと重い。
そこには、一人の男の命の温度が、まだ宿っているような気がした。
「……難しいですね」
私は、崇さんがよく言っていた言葉を口にした。
「でも、やってみます」
恵さんは店のソファに腰を下ろすと、糸が切れたように眠りに落ちた。
隣で娘の結ちゃんが、大山さんの持ってきた「ジャガイモ」を不思議そうに眺めている。
私は作業台に向かい、バーナーに火をつけた。
青い炎が、シュウ、と鋭い音を立てる。
ひしゃげたプラチナを熱し、叩き、少しずつ本来の円へと戻していく。
けれど、切断された跡だけは、どれだけ叩いても消えはしない。
無理に繋ぎ合わせれば、表面の刻印――「2015.11.22 T to M」という文字が潰れてしまう。
(……崇さんなら、どうするだろう)
いつもなら、隣で彼が「アサミさん、そこは力じゃない。金属の『行きたい方向』を聞くんだよ」と、ズレたアドバイスをくれたはずだ。
でも、今はいない。
静寂の中で、私は自分の呼吸の音だけを聞く。
「……あの」
背後で、結ちゃんの声がした。
彼女は私の手元をじっと見つめていた。
「お父さんの指輪、ピカピカになっちゃうの?」
「……どうして? 綺麗な方がいいかなって思ってたんだけど」
私が手を止めると、結ちゃんは小さな指で、自分の手の甲をなぞった。
「お父さんの手、いっぱいいっぱい傷があったの。練習とか、お仕事とかで。私、そのゴツゴツした手が好きだったから。……全部なくなっちゃうのは、なんだか、お父さんじゃないみたいで」
私は、息が止まるような衝撃を受けた。
私たちは「直す」ことを「元通りにすること」だと思い込んでいる。
でも、失われた時間は、元には戻らない。
傷跡を消すことは、彼がその人生で戦い抜いた証を、なかったことにするのと同義ではないか。
ソファで身じろぎした恵さんが、うわ言のように呟いた。
「……会いたいよ……剛さん……」
その声は、血を流しているようだった。
「癒えて楽になりたい」という願いと、「この痛みだけが彼を繋ぎ止めている」という執着。
私は、握りしめたヤスリを置いた。
私は、崇さんから奪った技術で、彼を「完璧な思い出」に閉じ込めようとしていた。
崇さんが私から逃げ出したのは、私が彼を「完璧」という檻に入れようとしたからだ。
……だとしたら。
三時間後。
私は、出来上がった指輪を恵さんの前に差し出した。
恵さんは目を見開いた。
それは、彼女が想像していた「新品同様の指輪」ではなかったからだ。
ひしゃげた歪みは、なだらかな曲線へと整えられている。
けれど、切断された激しい亀裂の跡には、あえてプラチナではなく「黄金(K18)」が流し込まれていた。
銀色の輪の中に、一本の、力強い金の筋が走っている。
「……これは?」
「金継ぎ、という技法を応用しました。割れた陶器を漆と金で繋ぎ合わせる、日本の伝統的な修復方法です」
私は恵さんの瞳をまっすぐに見つめた。
「傷跡を消すことはできませんでした。でも、この金の線は、剛さんがご家族を守ろうとした瞬間の光です。……傷ついたことは、不幸かもしれない。けれど、壊れたあとも続いていく人生は、以前よりも強く、美しいはずだと……私は、そう信じたいんです」
恵さんは、指輪に触れた。
金の継ぎ目にある「違和感」。
なぞるたびに、あの日、夫が示した「不屈の志」が、指先に伝わってくる。
「……ああ……」
恵さんの乾いていた瞳に、ようやく、一滴の雫が溜まった。
それは悲しみの涙ではなく、ようやく「過去」と「今」が繋がった、安堵の涙だった。
「暖かい。変ですね、ただの金属なのに。……剛さんが、そこにいるみたい」
「……お父さんの金の線、カッコいいね」
結ちゃんが隣で笑った。
恵さんは指輪を左手の薬指にはめた。
サイズはぴったりだったが、やはり金の継ぎ目の分だけ、かすかな違和感が残る。
でも、彼女はその違和感を、愛おしそうに何度も確かめていた。
「アサミさん、やるじゃないか。粋な仕事だ」
二人が店を出たあと、大山さんがジャガイモを網に入れながら言った。
「金継ぎか。あいつ――崇なら、思いつかなかっただろうな。あいつは、自分を『正解』に合わせようとする癖があるから」
「……そうですか?」
「ああ。あいつが逃げたのは、あんたが『正解』になりすぎたからだよ。職人はね、自分より上手い奴には耐えられるが、自分を完璧に理解しようとする奴には、恐怖を感じるもんなんだ」
大山さんは、不器用に私の頭を一度だけ撫でた。
「でも、今日のあんたの仕事は、理解じゃなくて『共感』だった。……よかったな。店を開けて」
大山さんが帰ると、工房に再び静寂が戻る。
私は一人、作業台の前に座る。
崇さんのいない椅子は、まだ冷たい。
恵さんが感じたあの「指の違和感」を、私は今、胸の中に感じている。
彼がいないこと。
その欠落という「傷跡」に、私は何を流し込んで、これからの人生を繋いでいけばいいのだろう。
言葉にならない無念を、せめて光に変える。
それが、今の私の精一杯だ。
「……よし、やるか」
私は自分を叱咤するように呟き、バーナーに火をつけた。
青い炎が、暗い工房を刺すように照らし出す。
崇さん。
私は、あなたのいないこの場所で、あなたに教わらなかった線を、引き続けます。
うつろうものを、なお想う。
私の職人としての道は、まだ始まったばかりだ。




