第23話:うつろうものを、なお想う
第23話:うつろうものを、なお想う
朝の匂いは、いつも少しだけ冷たい。
使い慣れた作業着を脱ぎ、数年前に買ったきりクローゼットの奥に眠っていた、少し上質なブラウスに袖を通す。鏡の前に立つと、そこには職人の「アサミ」ではなく、どこにでもいる普通の「竹川亜沙美」がいた。
中学生の頃から頑なに変えなかったセミロングの髪が、肩のあたりで所在なさげに揺れている。
鞄の底には、昨日崇さんから手渡された、あの目の潰れた古いヤスリが一本だけ入っていた。
「餞別代わりに、置いていくよ」
そう言って笑った彼の顔が、網膜の裏側に、まだ焼き付くような熱を持って残っている。
カチ、と小気味よい音を立てて、鞄の金具を閉じた。
――これで、本当に終わり。
商店街の外れ。まだ開店前のシャッターが閉まる店並みを通り抜け、見慣れた文字が躍る看板の下に立つ。
『アサミジュエリー』
昨日、半分だけ閉められたシャッターは、今は完全に下ろされていた。
「おや、アサミさん。もう行くのかい」
背後から、のんびりとした、しかし妙に鼻にかかる声がした。
振り返ると、大家の大山さんが、よれよれのハンチング帽を頭に載せ、両手にコンビニの紙袋を下げて立っていた。相変わらず、足元は突っかけサンダルだ。
「大山さん。……はい。朝一番の電車で、向こうのオフィスへ挨拶に行くことになっているので」
「そうか、そうか」
大山さんは、白濁しかけた優しげなルーペのような目で私の顔をじっと見つめると、手の中の紙袋を無理やり押し付けてきた。
「これ、持っていきな。駅のホームはまだ冷えるからね。温かいお茶と……あと、あんパンだ」
「あんパンですか? 朝から、ちょっと重くないですか?」
「馬鹿を言っちゃいけないよ。これから戦いに行くんだろう? 糖分を摂らないと、脳みそが動かん。バブルの時代はね、みんな夜中にあんパンを齧りながら地金を叩いたもんだよ」
「いつの時代の話をしてるんですか。……でも、ありがとうございます。いただきますね」
不器用で、時代遅れで、けれど底抜けに温かい好好爺の嘘。
昨日、大山さんが私に言った言葉が、胸の奥で静かに澱のように沈殿している。
『この人となら幸せになれる、じゃない。この人となら、不幸になってもいいと思える道を選べ』
私は、その不幸の始まりを、自分の足で選んだ。
「大山さん。……崇さんのこと、よろしくお願いしますね。あの人、私がいないと本当に一週間で机が伝票の山になりますから。たまに覗いて、生存確認してあげてください」
「ははは、分かっているよ。あの馬鹿弟子には、僕から特製のジャガイモでも差し入れしておくさ。……気をつけていくんだよ、アサミさん。君の引いた線は、もう誰にも消せないんだから」
大山さんは、私の肩をぽんと叩くと、それ以上は何も言わずに、またのんびりとした足取りで商店街の奥へと消えていった。
一人、残される。
私は鍵を取り出し、アサミジュエリーの勝手口のドアに差し込んだ。
カチャリ、と硬質な音が響く。
最後にもう一度だけ、あの場所を見ておきたかった。職人としての未練ではなく、ただの、私の「区切り」として。
薄暗い工房の中は、驚くほど静まり返っていた。
昨日まで私が座っていた作業台には、すでに何も置かれていない。きれいに掃き清められた机の上に、朝の光が窓の隙間から細い一本の線となって差し込んでいた。
その光の線を見つめていると、奥のカーテンが静かに動いた。
「……あれ。もう行ったのかと思ったよ」
崇さんだった。
寝癖のついたセミロングの髪を雑に一つに結び、ヨレヨレのTシャツ姿。手には、いつものように飲み残しのぬるいコーヒーカップが握られている。
「……忘れ物ですか?」
「いえ、挨拶を、ちゃんと、していなかったので」
私は、彼の顔を真っ正面から見られず、自分の靴の先を見つめた。
昨日、「好きでした」と過去形で告白し、彼は「それで、よかったと思う」と答えた。
師弟という檻を壊し、対等な職人として別れる。それが、私たちの導き出した「美しい完成形」のはずだった。
崇さんは、トコトコと歩いてくると、私の作業台の縁に腰を掛けた。
「そっか。……うん。頑張っておいで。ハイブランドの世界は、ここみたいに気楽じゃないだろうけど、君の技術なら、絶対に通用するから」
また、その顔をする。
すべてを理解したような、穏やかで、一歩引いた、掴みどころのない優しい仮面。
「すべてを分かってくれた」と錯覚させながら、その実、核心には絶対に触れさせない、彼のいつもの「ズレ」。
「……崇さん」
「ん?」
「相変わらず、そういうところ、本当にズレてますよね」
「え、何が?」
崇さんは、本気で分からないという風に首を傾げた。
その無防備な表情を見た瞬間、私の中で、昨日必死に組み立てた「完璧な職人としての覚悟」が、音を立てて崩れていくのが分かった。
私は外に出ようと、ドアノブに手を掛けた。
――けれど。
私の手が、そこでピタリと止まる。
このまま、綺麗に終わってあげるものか。
私は、彼にとっての「都合のいい、成長した一番弟子」のままで、この店を出ていくことなんて、できそうになかった。
じわりと、胸の奥から湿度のある熱い感情が、喉元までせり上がってくる。
私は、ドアノブを握ったまま、不思議そうな顔をして、ゆっくりと振り返った。
「……あの、ちょっと待ってください」
「え?」
「話の流れで、なんかすごく綺麗に勢いが付いちゃって、今生の別れみたいな雰囲気になってますけど。……私、今だけは欲張って、もの凄くズルい女になりますからね」
崇さんは、コーヒーカップを口元に運んだまま、目を丸くして固まった。
「職人としては、あなたの隣にいる正当な理由を失いましたから出ていきます。対等なライバルとして、別のフィールドで戦ってきます。……でも…」
私は、一歩、崇さんの方へ歩み寄った。
私服のブラウスの裾が、かすかに擦れる音がする。
「ただの、竹川亜沙美として、また普通に崇さんに会いに来ますから。プライベートで、私服で、この店にふらっとお茶を飲みに来ます。その時は、ちゃんと私に美味しいお茶を淹れてくださいね」
崇さんは、完全に不意を突かれたようで、口を半開きにしたまま絶句している。
いつも相手の求めている理想を演じる彼が、初めて「形」を失って、ただの42歳の男として、慌てたように視線を泳がせた。
「あ、いや……でも、向こうの仕事が忙しくなるんじゃ……」
「忙しくても、来ます。有給休暇を使ってでも来ます。押し掛けます」
私は、昨日までの抑圧された「良い子」を完全に捨て去り、意地悪く、けれど最高に晴れやかな笑顔を浮かべてみせた。
「恋は、昨日で一度だけ、ちゃんと言葉にして終わらせました。だから、もう未来の約束はしません。でも、関係が終わったなんて、私は一言も言っていませんから」
沈黙が、今度は軽やかに工房を支配する。
崇さんは、しばらく呆然としたように私を見つめていたが、やがて、観念したように深く、深く息を吐き出した。
その顔は、困り果てているようでいて、どこか酷く愛おしそうな、そんな複雑な歪みを帯びていた。
「……降参だよ。君には、最初から敵わなかったな」
「一週間後、机がゴミ屋敷になってるのを楽しみにしてます。……それじゃあ、行ってきます。崇さん」
「うん。……行ってらっしゃい、亜沙美ちゃん」
初めて、職人の苗字ではなく、私の本当の名前を呼んだ彼の声を背中で受け止めながら、私は今度こそドアを開けた。
カラン、とドアの鈴が、高く、軽快な音を立てて響く。
外に出ると、初夏の、眩しいほどの青空が広がっていた。
選んだのは、一緒にいることじゃない。それぞれの、うつろう人生だ。
けれど、物の中に、そして彼の手元の中に、私の残した「線の歪み」は残り続ける。
駅へ続く坂道を、私は大山さんから貰ったあんパンを鞄に押し込み、少しだけ背筋を伸ばして、力強く歩き出した。
うつろうものを、なお想う。形にし続ける――その果てしない旅路の先にこそ、私にしか生み出せない本当の輝きが待っている。




