第2話:無情な答えに、なお想う
第2話:無情な答えに、なお想う
商店街の時計台が、午後の三時を告げる。
大家の大山さんは、先ほどから「アサミジュエリー」の隅で、昨日どこかから貰ってきたという知恵の輪と格闘していた。
「……おかしいねぇ、アサミさん。これ、外れるはずなんだけど。力を入れると、余計に噛み合っちゃう」
私は作業台で、小さなファッションリングの爪を整えながら、顔を上げずに答える。
「……そういうものです。無理に解こうとすれば、金属は反発しますから」
そう。形あるものはすべて、意思を持っている。
時にそれは、言葉よりもずっと雄弁に、持ち主の現在地を語ってしまう。
カラン、と乾いたドアベルが鳴った。
入ってきたのは、二十代後半だろうか。灰原栞さん。
ふわりとしたベージュのニットを纏い、柔らかな印象を与える女性だが、その瞳には、読み終えたばかりの悲劇の余韻のような、静かな澱みが沈んでいた。
彼女はカウンターに、そっと掌を置いた。そこには、どこにでもあるような、華奢なシルバーのリングが乗っていた。
「これ……磨き直していただけますか。それと、少しだけ歪んでしまっていて」
「拝見いたします」
受け取ったリングは、あちこちに細かい傷がつき、銀特有の黒ずみが進行していた。
それは、大切にされていた証というよりは、握りしめられ、執着され、手放せなかった時間の集積のように見えた。
「何か、ぶつけられたりしましたか?」
「いえ。ただ、ずっと……待っていたんです。これをくださった方の、返事を」
彼女は、困ったように眉を下げて笑った。
その笑顔は、鏡の前で何度も練習したような、他者を傷つけないための「盾」だ。
一年前、彼女は好きな男性に告白したのだという。その時、彼から返ってきた言葉が、彼女をこの場所に縛り付けていた。
「『わかった』……そう言われたんです。それきり、何も」
YESでもNOでもない。
拒絶でも、受け入れでもない、ただの「理解の表明」。
彼女は、その言葉の結び目に自分を繋ぎ止め、めくられるはずの人生のページを、自分の手で押さえ続けていた。
「『わかった』と言われたから、私はまだ、彼の物語の中にいてもいいんだって、そう思ってしまったんです。……期待させないことが彼の優しさだって、頭では理解しているのに」
「言葉は、発した瞬間に自分を形づくってしまうものです」
私は、超音波洗浄機の中にリングを沈めた。
水中で振動が伝わり、銀の隙間から、溜まっていた汚れが黒い霧のように溶け出していく。
「YESやNOは、境界線です。でも『わかった』は、霧のようなもの。どちらへも進めず、視界を奪い、その場に留まらせる」
「……はい。解きたいのに、解き方がわからないんです。まるで、きつく結びすぎた紐みたいに」
彼女は、カウンターに置かれた大山さんの知恵の輪に、視線を落とした。
解けないままの知恵の輪。
答えの出ない告白。
彼女のような人は、相手を困らせるくらいなら、自分が永遠に待ち続けることを選んでしまう。その忍耐が、自分を摩耗させていることにも気づかずに。
「磨きに入ります。少し、お時間をいただきますね」
私はリューターを手に取った。
微かな回転音が、静かな店内に響く。
深い集中。
私の指先は、彼女の「停滞した一年」をなぞっていく。
金属の表面を薄く、薄く削り、新しい地肌を露出させる。
感情を口にすれば、それは熱を持ち、やがて冷えて固まる。言えなかった言葉は、そのまま心の奥に澱として積もり、いつの間にか、その人の重さそのものになってしまう。
「……アサミさんは、待ったことはありますか?」
不意に、彼女が問いかけてきた。
作業する私の手元を、じっと見つめながら。
「……待つのは、得意なんです」
私の口から、自分でも驚くほど滑らかな嘘が、あるいは真実が漏れた。
私は今、どちらで答えたのだろうか。
待ち続けている私か。それとも、自分自身を飼い慣らせる日を待つ私か。
「でも、待つことと、止まることは違います」
私は研磨を終え、仕上げのクロスでリングを拭き上げた。
黒ずんでいたシルバーは、驚くほど無垢な白さを取り戻していた。
「このリングは、新しくなったわけではありません。ただ、表面の汚れを落として、本来の形に戻っただけです」
私は、彼女にリングを返した。
栞さんは、それを指にはめず、掌の上で転がした。
「……綺麗。なんだか、冷たくて気持ちいいです。この一年、ずっと体温で生ぬるくなっていたから」
彼女は、ふう、と深く、長い息を吐いた。
それは、自分の中に溜め込んでいた「わかった」という名の霧を、すべて吐き出すような呼吸だった。
「返事はいらない、なんて。私、格好つけていたんですね。本当は、突き放してほしかったのかもしれない。……私を、私の外側に放り出してほしかった」
彼女は、ようやくリングをポーチの中に仕舞った。
指にはめない。それは、彼女が「物語の続き」を書き直そうとしている証拠だった。
「……ありがとうございます。次は、自分へのご褒美に、新しい指輪を買いに来ますね。誰かの答えを待つためじゃない、自分のための指輪を」
彼女は、少しだけ顔を上げて、店を出ていった。
商店街を歩く彼女の背中に、午後の柔らかな光が降り注いでいる。
「……アサミさん。あの子の知恵の輪、ようやく外れたみたいだね」
大山さんが、バラバラになった二つの金属の輪を机に置いて、満足げに笑った。
「……そうですね」
私は、再び自分の手元を見る。
前髪が、頬をかすめる。
彼女はページをめくった。
けれど、私は?
私はまだ、この「アサミジュエリー」という箱庭の中で、誰かの「わかった」を、あるいは自分への「わからない」を、磨き続けている。
窓の外では、スイートピーがまた一ミリ、重力に逆らえず項垂れた。
無情な答えほど、純粋で、美しい。
そして、それに縛られている自分に気づいたとき、人はようやく、自立という名の孤独を知るのだ。
私は、次の依頼品を手に取る。
夜が来る前に。
うつろうものを、なお想う。
この静かな侵食が、私のすべてを塗り替えてしまう前に。




