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うつろうものを、なお想う  作者: あめたす


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第1話:ふれるものに、なお想う

第1話:ふれるものに、なお想う


 駅のホームから吹き抜ける風が、商店街の隅にある「アサミジュエリー」のドアを遠慮なく叩く。

 大家の大山さんが昨日持ってきたスイートピーが、水の入った空き瓶の中で所在なげに揺れていた。


「春だねぇ、アサミさん。この花、咲いてるのをよく見かけるけど、実は手入れが難しいんだよ。すぐに首が垂れちゃうからね」


 カウンターの隅で新聞を広げていた大山さんが、眼鏡の縁をいじりながら言う。私は顕微鏡から目を離さず、短く応えた。


「……そうですね。見かけによらず、わがままな花です」


 手元にあるのは、プラチナのリング。長年の使用で石座が沈み、全体が曇っている。顕微鏡越しに見るそれは、まるで何かに耐え続けてきた皮膚のようだった。


 カラン、とドアベルが鳴った。

 入ってきたのは、薄いグレーのトレンチコートを纏った女性だった。髪は耳の高さで切り揃えられ、化粧は薄いが、その肌の質感からは徹底した自己管理の匂いがした。

 瀬戸律せと りつさん。三十代後半。職業は編集者か、あるいは大学の講師だろうか。彼女は一歩、店の中に踏み込んでから、私の手元を警戒するように一瞥した。


「……予約していた瀬戸です。指輪のサイズ直しを」


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 彼女はカウンター越しに、小さなベルベットの箱を置いた。

 中には、極限まで装飾を削ぎ落としたシンプルなリング。しかし、内側には刻印があった。日付と、イニシャル。


「最近、少しきつくなってしまって。外すときに、どうしても……抵抗があるんです」


「拝見しますね。指を失礼してもよろしいですか?」


 私が手を伸ばした瞬間、彼女の指先が微かに跳ねた。

 彼女は自分の右手の薬指の付け根を、左手の親指で強く、自虐的なほど強く押さえた。まるで、そこに刻まれた見えない傷を隠すように。


「……ごめんなさい。あまり、人に触られるのが得意ではなくて」


「お気になさらず。職人の手は、ただの道具ですから」


 私は彼女の指先には触れず、リングゲージを差し出した。

 彼女が選んだサイズは、今の彼女の指には少しだけ「緩すぎる」ものだった。


「これでは、回ってしまいますよ」


「いいんです。ぴったりしていると、なんだか……支配されているような気がして」


 律さんは、窓の外を走る電車の音を拾うように目を伏せた。

 彼女の言葉には、独特の硬質さがある。正論で武装し、他者が自分の領域に踏み込むのを、理性の刃で切り裂いてきた人の響きだ。


「瀬戸さんは、言葉を大切にされる方なんですね」


「……どうしてそう思うんですか?」


「曖昧なことを嫌う方の指輪は、だいたい決まった場所に傷がつきます。ここ、手のひら側の腹の部分。机を叩くときや、ペンを握るときに、無意識に力を込めていらっしゃる」 


 彼女は一瞬、息を止めた。

 図星だったのだろう。彼女のようなタイプは、「理解された」と思った瞬間に、猛烈な拒絶反応を示すことがある。私はすぐに視線を指輪に戻した。


「指輪を直すのは、形を整えるためだけではありません。生活の中で生まれる、小さな『摩擦』を取り除く作業でもあります」


「摩擦……」


「ええ。正しさは、時に関係性を壊します。でも、歪んだまま使い続けることもまた、未来を壊すんです」


 律さんは、私の言葉を頭の中で反芻するように沈黙した。

 私は彼女の前で、あえて無言のまま研磨を始めた。

 深い集中。

 周囲の音が遠ざかり、一秒が永遠のように引き伸ばされる。

 金属を削る音、大山さんが雑誌のページを捲る音、外を歩く子供の笑い声。

 それらがすべて、薄い膜の向こう側の出来事のように感じられる。


「……不思議ですね」


 不意に、彼女が呟いた。


「何がでしょう」


「アサミさんの手元を見ていると、触られているわけでもないのに、なんだか……心の奥の、トゲのようなものが削られている気がします」


「普通の集中は、時間を早く感じさせます。でも、深く潜ると、逆に時間は遅くなる。私は今、瀬戸さんの数年間を一緒に歩いているような感覚です」


 私は手を止め、仕上がった指輪を差し出した。

 曇りは消え、プラチナは冬の月のような静かな光を放っている。

 律さんは、それを恐る恐る指に通した。

 緩すぎず、きつすぎず。指と金属の間に、ほんのわずかな「自由」がある。


「触る(さわる)のは、形。触れる(ふれる)のは、心です」


 私は、自分でも誰に向かって言っているのかわからない言葉を口にした。

 彼女は指輪をはめた手をじっと見つめ、それから、初めて私と視線を合わせた。

 その瞳の奥には、先ほどまでの冷徹な諦念ではなく、ひび割れた氷の隙間から漏れ出すような、小さな熱があった。


「……ありがとうございます。この指輪、もう少しだけ、はめてみようと思います。歪んだままでも、私の歴史の一部だと思えるまで」


 彼女は代金を支払い、背筋を伸ばして店を出ていった。

 駅へ向かう彼女の足取りは、来たときよりも少しだけ、地面を確かめるような重みを持っていた。


「アサミさん。あのお客さん、きっとまた来るね」


 大山さんが、いつの間にか冷めてしまったお茶を啜りながら言った。


「どうしてですか?」


「だって、君に自分の『歪み』を見せちゃったからね。一度自分の弱さを見せた相手には、人は二度と嘘がつけない。……それは、恋よりも残酷な絆だよ」


 大山さんの冗談を、私は軽い笑いで受け流した。

 作業台の上には、削られたプラチナの微細な粉が、光を受けてきらきらと輝いている。

 私は、自分の手を見つめた。

 前髪が、視界を少しだけ遮る。

 私は職人として、彼女の指輪を直した。

 けれど、私自身の内側にある「歪み」は、一体誰が直してくれるのだろうか。


 窓の外では、スイートピーがまた一つ、ゆっくりと首を垂らした。


 うつろうものは、いつも美しい。

 そして、それ以上に、恐ろしい。

 私は再び顕微鏡を覗き込む。

 次のお客様が来るまで。

 

 うつろうものを、なお想う。

 この閉じた聖域の中で、私はまた、誰かの人生の断片を削り続ける。

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