97粒目
青年は、なるべく早く戻ってきますと、宿の者たちに伝えている。
そして我等を振り返れば。
「……今度は、僕が見送られる番ですね」
笑みを浮かべれども、感情を堪える様にぎゅっと握られる拳。
「の。絵本をありがとうの」
「いいえ。たった数日でしたけど、本当に楽しい時間を、……あ」
あ?
「あ、ありがとう、……ございましたっ」
街では、あの看板娘の手前か耐えていた癖に。
(のの)
今はタバダバと涙を流している。
「フーン」
半目になる狸擬き。
盛大に涙を流しながら、男たちと握手を交わし馬車に乗れば。
けれどその姿も、泣きっ面とはいえ、思ったより堂に入っているではないか。
深く頭を下げる青年に。
「またそのうち」
「またの」
『また会おう』
「フーン」
下り坂から見えなくなる場所まで見送り。
男が、自分達もそろそろ出発を考えていますとマダムたちに伝えれば。
「まぁまっ?」
「もうご出発ですかっ?」
なんの。
わりと長く腰を落ち着けていたつもりである。
「寂しくなりますな」
と肩を落としてくれるチーフ。
「あの兄さんが戻ってくるまで居てもいいんじゃないですか?」
厨房の若い男。
男が、各地にある組合に、知人の取り組みを伝える仕事が出来たのでと我を抱き上げ。
我が男のシャツをくいくい引けば。
「あぁ、そうだ」
男が、長く世話になった礼として、
「出発の前に、最後に、宿の方たちを描かせて欲しい」
と伝えれば。
「まぁまっ?」
「うぅん。勿論、無論、立場的には遠慮をすべきなのでしょうが……」
心からその申し出を受けたいのが本音ですと宿の主人。
何より一番ウキウキし、それを隠せていないのが、食堂の若い男でなく、初老のチーフなのが少しおかしい。
宿の者たちに声をも掛けて貰うことにし。
狼男も、
「俺は村の方に、手伝いがてら、そろそろ旅立つことを伝えてくる」
と狸擬きと共に坂を駆け降りて行く。
では早速、手の空いている方から描かせて下さいと告げる男に。
「の、我は部屋に戻っているのの」
降ろすのと男の腕の中でもがけば。
「……1人で大丈夫か?」
「の」
こやつは少々過保護が過ぎる。
我は1人部屋へ戻り。
「……ぬぬん」
なるほど。
男が懸念していたのは、我が扉の取っ手を握れるかどうかであるか。
片手を上げて踵を上げてみるも。
「ぬー」
(届かぬの)
その場で跳ねてと思えど、我の力では取っ手が壊れるか外れる。
窓は開きっぱなしのテラスから部屋に入る体を見せるかと踵を返しかければ。
「僭越ながら、わたくしが」
「のの?」
察していたのか、足早にチーフがやってきた。
「ありがとうの」
中に入り扉も閉めて貰ってから。
我はそのままテラスに出ると、靴と靴下を脱ぎ、柵の間を抜ける。
「……」
裸足で芝を歩き、花は摘み取られ葉だけになったジャスミンの間を抜けて。
「ほいのっ」
我は急な崖から飛び降りる。
狸擬きや狼男程ではなくとも、
「うんしょのしょの」
ほいほいと砂浜まで降りれば。
浜辺に人気はなく。
「……」
時間的には引き潮か、するする下がる波の手前まで進み。
じっと。
じっと先の気配を探れば。
(ぬん)
海からも、こちらを意識する気配。
(今はお主等に用はないの)
あるのは。
ただ。
「ふぬ」
(人魚たちの名残は、我の小指の爪先程もないの)
きちりとお舟に乗って霊魂もどこかへ向かった様子。
ふと、影が出来た気がして空を見上げれば。
「……のの?」
雲に擬態した蛇と鯨の姿。
「久しいの」
呟けど、こちらの呟きなど到底届かず、すいよすいよと空を泳いで行く。
見えなくなるまで見送り、もう熱さもない砂浜を踏み締めて、再び海を眺めていたけれど。
「……」
まるで、我を引き込むかの様に。
今は引き潮のはずの波が何やら不自然に、我の許だけにぬるぬると流れて来たため。
「狸擬きの」
海風に乗せるように声を上げれば。
そう待つことなく、村の方から従獣が一目散に駆けてきた。
「フーン」
こんな所でいかがなされましたか主様と、砂に足を取られつつもやはり早い。
「降りたのは良いけれど、登るのは着ているおべべが汚れるのの」
なので我を宿まで運ぶののと背中に股がれば。
「フーン」
畏まりました、人目に付かない反対側から回りましょうと、以前は、隣の村から宿の主人が辿ってきたと思われる緩やかな道なき道を上がって行く。
海の方から、ほんのりと口惜しい気配を感じるのは、気のせいか。
(我はお主等のおやつではないのの)
「よい土地であったの」
「フーン」
まあまあでしたと狸擬き。
「フーン」
「の?」
「フンフン」
この高台の宿の様に、主様のお山である青のミルラーマにも屋敷を建ててはどうでしょうと狸擬き。
「のの」
そうの。
青のミルラーマでの我の寝床は、我1人でいっぱいいっぱいな、小さな岩穴でしかないしの。
どうせならば。
「我等で一から建てるかの」
誰も技術を持たぬ素人ばかり。
隙間だらけのちっぽけな小屋程度ならば建ちそうである。
「フーン」
山を抜ける者たちが、自分達のための寝床だと勘違いしそうですと狸擬き。
「くふふ、そうの」
青熊の減った今は、少しは山を抜ける者も増えていそうであるし。
それでも良いかもしれぬ。
「の、お主は青のミルラーマの気配は辿れるのの?」
「フゥン」
この距離ではわたくしにも難しいですと狸擬き。
ふぬ。
さすがに厳しいかの。
宿に戻り、テラスに放っていた靴下と靴を履き直して籐のソファに座っていると。
我の様子を見に来た男が、
「いつの間に戻った?」
狸擬きに首を傾げ。
その男は、我がいないとどうにも落ち着かなさそうなため。
男のお絵描きを見守るために、我は座ったばかりのソファから飛び降りた。
男は翌日の丸1日、絵描きに費やし。
途中。
村の組合へ、おじじやダンディたちの“試み”への話をしに向かい。
夕刻。
「夕食前の忙しい時間にすみません」
「とんでもございません。最後の最後まで、お客様を働かせてしまって……」
宿を背に、恐縮するのはマダム。
隣に立つ宿の主人は、
「実は密かに、私たちのことも描いて貰えたらと依頼を考えていたのです」
頭に手を当て。
「まぁま?あなたってばっ」
そうでしたの?と軽く跳ねながら驚くマダム。
我と狸擬きと村から戻ってきた狼男は、少し離れたテラスの椅子に座り。
「お主も、村では多少、引き留められたであろうの」
狼男に問えば。
『あぁ』
こくりと頷く狼男は。
『今夜、宿を抜けて部屋に来て欲しい、と数人にせがまれた』
と。
なんと。
度数の高い、尚甘くもない酒を飲んだ時の様な顔をする狼男。
しかし、村の女たちは。
こやつが来ないと分かれば。
「夜這いがあるやもしれぬの」
生きた女たちが、坂から、何なら崖から這い上がってくる姿を想像したのか。
『……それは物凄く怖い』
顔色を悪くしている。
「くふふ、冗談の」
絵が完成する頃、チーフが絵を収める額縁を持ってやってきた。
「どうでしょう?」
男が描いたものを2人に見せれば。
「……凄い。とってもとっても素敵だわ、あなた」
「君も、本物の君と同じくらい素敵に描かれている」
まるで新婚夫婦の様に、仲睦まじくはしゃぐマダムと宿の主人。
「お夕食ですが、今夜はテラスにて、お2人の同席のご許可を頂ければ幸いです」
とテーブルに手の平を向けるチーフ。
ニコニコしているマダムと宿の主人に、喜んでと男が頷き。
この宿での、最後の晩餐が始まった。




