89粒目
男は、大事なお二人の休日を邪魔することは出来ませんと辞退したけれど。
「その、妻のためにも、是非」
と主人が視線を向けてきたのは我。
「?」
「うちは、子供に恵まれずでして。宿もこの通り、家族向けではないので……」
代わりに、姪っ子甥っ子を可愛がってはいるけれど。
隣の村と近くはあるけれど、2人とも忙しい身でもあり、なかなか会える機会も少なく。
そんな最近のマダムは。
「今日はね、お嬢様と一緒にジャスミンを摘んだの」
「今日はね、作ったお菓子をとっても美味しそうに食べてくれたのよ」
と、とても楽しそうに笑って話してくれるのだと。
夫としては、妻を喜ばせたいのだとも。
愛妻家である。
そういうことでしたら、遠慮なくお誘いをお受けします、同行させて下さいと男が頷き。
高低差はあるけれど、遠くはないのですと宿の主人。
男が地図を広げていると、控え目に扉が叩かれ。
「お茶をお持ちしました」
噂をすれば。
マダムがお茶と手作りと思われるタルト乗せた皿を運んできてくれた。
切り分けられ、皿に乗せられたものは。
タルト生地に、アップルパイの様に格子が組まれている。
「中身は、ジャムであるかの?」
とろりと艶のある黄色に近い橙色が覗き。
「えぇ、アプリコットジャムと、下にはカスタードを敷いています」
杏子であるか。
大きめに切り分けて貰い。
「あーむぬ」
頬張れば。
「……ぬふん♪」
サクサクの生地に甘酸っぱいジャム、そこにとろりと甘いカスタードが重なり。
口許が弛む程に美味。
「ぬんぬん♪」
「フーン♪」
美味しいおやつにありつけるのならば、雨もそう悪くない。
「……まぁま。おはようございます」
今日はよろしくお願いいたしますとやってきたマダムは、いつもの麻の制服ではなく。
柔らかい生地のブラウスに、麻のスカートであれど、華やかな色で染められたもので、お洒落をしている。
そのマダムは、
(ぬぬ?)
僅かに、心ここにあらずの様な。
ほんの瞬時。
別のことに気を取られているような。
けれど。
ここ最近の深刻なものとはまた違い。
まだ宿に来たばかりで、顔を合わせたばかりの頃あれば、きっと気付けない。
その程度の、小さなもの。
「お馬さんたちの蹄鉄は替えさせて頂ましたので」
「あぁ、ありがとうございます」
「いいえ。……」
ニコニコしつつも。
「珈琲のおかわりをどうぞ」
「あぁ、いただきます」
ソースの付いた口許を男に拭かれる我を見て、
「……」
しばし動きを止める。
なんの。
若干の戸惑いを含めたそれは。
(なんであろうの)
早めの朝食を終え、厩舎へ向かえば。
本人的にはニコニコと、実際は凄んでいる様にしか見えない顔で、更に大股でズンズンとこちらへやってくるのは宿の主人。
「おはようございますっ」
最近、少しずつ、客の少ない時間を選び、表に出てくるようになっているらしい。
「常連様には、一度くらい、主人に挨拶をさせて欲しいとお願いされることもあったので」
勿論、誤解されがちな見た目のことは事前に伝えているとも。
「でも、とても逞しいと、お世辞を頂けることもあるんです」
両手を合わせて口許に当てるマダム。
自慢の夫が認められて、とても喜ばしい様子。
額を赤く染める宿の主人。
馬車は。
「花を積まなくてはならないので、簡素で申し訳ない」
馬はともかく、荷台の方は大きな荷台であり、細いロープや鎌が積んであり、人はおまけ。
「いえ、屋根があるだけで違いますから」
そして馬たちは、馬たちきっての希望で、我等が脳筋馬がブフンブフンと構えている。
ラベンダーは、呑気に花畑を眺めに行くわけではなく、精油であったりとジャスミン同様に、客の少ない冬の間の、宿の大事な収入源になると。
それでも。
「お昼は用意して来ましたから」
「フーン♪」
馬車を牽くのは宿の主人。
蹄鉄を替えてくれたのも宿の主人らしい。
「旅人並みに何でもするの」
「表に出られないので、出来ることは出来る限り覚えようと思いまして」
マダムも宿の主人も、我等が旅をしてきた土地土地の、やはり宿が気になる様子。
旅人に居付かれないよう、食事はわざと不味い保存食を出す宿の話や、山の中に、いつ、誰が建てたのかも分からない小屋の話など。
「オーナー以外はメイドしかいない湖畔の宿もありました」
あの明るい色の鳥が相棒であった、女好きで着道楽な主人は、変わらずに街のマダム達のアイドルなのであろうか。
マダムは勿論、宿の主人も耳を傾け、大きく頷いたり驚いてみたり。
「フーン」
狸擬きが、最近は隣にいることの多い狼男の不在に、
「フン?」
寂しがるよりも違和感を覚えている。
本日のお出掛けに狼男は、
『俺も行きたいけれど』
雨上がりには手伝いに来てほしいと、村の方でご指名が入っているのだと。
「人気者も大変の」
そのため朝から村へ降りている。
畑や果樹園が広がる道を抜け、隣の村へ続く道はあっちなんですよと教えて貰いつつ。
見張らしはいい丘を抜け、じわじわと登り坂になり始めると、馬たちは張り切って進んでいる。
1人掛けの籐のソファは、最近は離れた街の方でも需要が高く人気がある話などを聞かせて貰い。
わりと急勾配な、頼りなき轍の跡の残る道をズンズンと進んで行けば。
「のの?」
唐突に、まこと見事な、紫色の絨毯が広がっていた。
「涼しいの」
「フーン」
狸擬きと共にその辺りを駆け回れば、宿の主人は、ラベンダーの花を摘むのではなく、茎から刈っている。
収穫の仕方が、ジャスミンとは全く異なる。
「の、の」
「ん?」
「我も手伝うの」
男が靴に仕込んでいるナイフを借り、真似をしてスパスパ切れば。
男も腰に忍ばせてあるナイフで刈り取り始め。
「フーン」
狸擬きはラベンダー畑の中で蝶々を追っている。
「まぁま、ゆっくりお散歩でも楽しんでもらうつもりでしたのに」
宿の主人共々マダムにも恐縮されるけれど。
ラベンダー畑は逃げぬしの。
我等が刈ったものを、マダムが束にして細い紐で巻き付けて、荷台の外に並べていると。
「フーン?」
頭と背中にラベンダーの花弁を乗せた狸擬きが、我等が来た道に鼻先を向けている。
「の?」
なんのと手を止めて振り返れば。
「おやの」
馬車がやってきた。
宿の白髪頭の御者と、隣には狼男の姿。
『あぁ』
狼男が手を振り。
何かあったかと馬車に駆け寄れば。
村で、今日は仲間たちはラベンダー畑へ向かったと話したら、
『それは君も行くべきだろう、と仕事をなしにされた』
そういうものであるか。
「こっちの荷台もほぼ空なので、ラベンダーはまだ積めますよ」
と御者。
皆で精力的にラベンダーを刈り取り。
ラベンダー畑は、昔はここまで大きくなかったと宿の主人。
徐々に広がっていったらしい。
「今はお陰で目一杯刈れます」
確かにこれだけ刈っても、あまり減ったように見えない。
ある程度刈れば、我はマダムと共にラベンダーを紐で括り。
それを積み上げていた御者は。
大方積み終えれば。
「馬たちに水を飲ませに行ってきます」
馬たちを連れて先の岩場から溢れる水場へ向かうと。
ついでに水を汲んできますとバケツ片手に4頭の馬を引き連れていく。
「フンフン」
狸擬きと狼男は、追いかけっこを始め。
ラベンダー畑を囲うなだらかな岩の足場を飛ぶように進みつつ、先に見える切り立った岩肌の方まで走って行く。
かと思えば。
「……登り始めたな」
「まぁまっ?」
「おお、身軽ですね」
崖はそう高さはないとは言え。
「何の、白い花かの」
「んっ?」
我を抱き上げようとした男が、中腰で動きを止める。
「あやつらが向かっている場所に白い花が見えるの」
「……」
男は我を抱き上げてから、目を凝らしている。
しかし。
(……あんな易々と、人の目に触れやすい場所にはないかの)
難なく花の辺りにまで這い上がった狼男は、自身で半分、残りは狸擬きの口に咥えさせ、器用に降りてくる。
宿の主人は、狼男と狸擬きの身体能力に感心しているけれど、マダムはハラハラしている。
岩肌から飛び降りれば、狼男は花を手に持ち替え、狸擬きは口に咥えたまま戻ってくると。
それはやはり白い花に似ているだけの、ただ可憐なだけの白い花であり。
「フーン」
狸擬きが花を咥えた鼻先を突き出すのは。
「まぁっ、私にプレゼントしてくださるのっ?」
「フーン」
そうだと狸擬き。
「まぁま、いいのかしら?とっても嬉しい、ありがとうございます」
甘くてとてもいい香り、と鼻先を白い花に寄せるマダム。
『君にも』
狼男が、男に抱っこされる我に花を差し出してきた。
「のの」
ありがとうのと両手を伸ばして受け取れば、狼男のはにかんだ笑み。
我を抱く男の手に、少し力が籠った。




