86粒目
人魚。
あの人魚たちとは、また別の人魚であろうか。
宿の主人が遭遇したのは1体。
ふぬ。
(人魚たちは3体で1組の決まりは、別にないのであるのの)
それと。
我には、全く解らぬけれど。
もし同じ個体であれば。
我の男と同じように、宿の主人にも、人魚から見ると酷く美味に思える何かがある様子。
我の男は、我の血が混じっているためであったけれど。
あの人魚が果たして同じ個体かの判別を、出来ることも、知るすべもない。
「……」
狸擬きの背をそっと撫でて囁けば。
『自分たちも、つい先日、人魚と遭遇した』
狸擬きが口を開き。
俯きがちになっていた宿の主人がガバッと頭を上げる。
なんならこの宿の主人も、化け物に振り回された被害者仲間である。
口を開くも、言葉が渋滞している様子で、口をパクパクさせた後に出てきた言葉は。
「だ、大丈夫なのでしたか……っ?」
我等を案ずるものであり。
それぞれ頷き、細い瞳を瞬かせる宿の主人に。
『人魚はもういない』
と狸擬き。
(のの?)
「いない……?」
当然、宿の主人は理解の追い付かない顔。
(ほうほう)
どうやら我の従獣は、我等にのこのこと近付いて来た人魚の一体と、宿の主人が恐れている人魚を、同一の個体だと考えているらしい。
そして。
狸擬きがそう断言するのだから、きっと間違いはないのであろう。
宿の主人は、我に視線を向けてきたため。
「の」
頷いてみせれば。
「……彼女はどこかへ、その、遠くへ、行ったのですか?」
ぬぬ。
我は狸擬きに耳打ち。
『人魚は、こちらに対しても非常に気にくわない要求をしてきたため、この男が葬った』
お利口な従獣は我の言葉をそのまま口にし。
「ほ、葬った!?」
「んっ!?」
宿の主人はソファから立ち上がり、男も物凄い勢いで我を見下ろしてきた。
「の」
我は、宿の主人を見上げ、
「こう、ナイフでの、あやつの額を、見事に貫通させたのの」
右手を振りかぶって見せれば。
『男はナイフの使い手。主様が襲われ食われそうになった瞬間、見事な手腕で化け物の額に刃を突き刺し絶命をさせた』
狸擬きも前足をブンッと振って見せる。
なかなかの演技派。
「お、お嬢様が、襲われそうに?食われそうに……?」
情報の刺激の強さと量に、宿の主人は、よろけるように籐のソファに身体を預ければ、ソファは大きな音を立てて軋み。
『そうだ。主様は化け物には非常に魅力的な存在である故、それもまた必然とも言える』
のの。
そろそろこやつを黙らせるか。
「化け物……?」
男が諦めた顔で、彼女や彼には、人魚たちは醜い化け物にしか見えないらしいのですと補足してくれる。
「……」
宿の主人は、その身で次々と訪れる衝撃を受け止めるのが目一杯で、男すら驚いていたことにまでは気が回らない。
無論、それだけでなく。
贄になりかけた我の男ですら、記憶の中で、未だにどこまでも美しく愛くるしい人魚として存在しているのだ。
なんであったか、記憶の変容、であったか。
そう、“思い出補正”なるもので、宿の主人には、人魚は尚更美しい姿で記憶されているはず。
その宿の主人は、未だ理解が追い付かない顔で、しばらく天井を仰ぎ、額に両手を当てていたけれど。
鳥たちがテラスの柵に留まり、しばしの間に、またせわしなく飛び立てば。
「……彼女は」
人魚は。
「私のことも、食べるつもりだったのでしょうか……?」
天井を仰いだまま聞かれた。
気になるのはそこか。
「そうの。人魚はお主を食らい、自身の血肉にし己の一部にすることを、とんと気取って、
“海で一緒に暮らしましょう”
などとせがんで見せたのの」
狸擬きでなく、男が訳してくれる。
「なんて……。なんだって、そんな……」
呻き声に近い溜め息を吐き、更に長い沈黙の後。
「……では、あの人魚は」
化け物は。
「あの魚の半身で地に立ち、二足歩行を出来る手段は、果たしてあったのでしょうか……?」
今も眉を深く寄せた宿の主人の顔は、いつかの青熊と対峙したらいい勝負になりそうである。
ふぬ。
「どうであろうの?」
投げ出した短い後ろ足をぴんと伸ばし、伸びをしている狸擬きに問うてみれば。
『初見ならば、主様をも欺く幻覚を見せることに長けた化け物でありますから、実際に二足歩行を試みるのではなく、他の手段なら十分にあり得ます』
ぬぬん。
単純な移動手段だけであれば。
馬車は無論。
もう少し個々のものとなると。
杖、では心許なく。
「車椅子などかの」
『はい。あの化け物たちが車椅子の存在を知り、更に陸に上がる理由が出来れば、もしかしたら利用するかもしれません』
ふぬぬ。
あの幻術は、人間にとっては、それは些か脅威やもしれぬけれど。
少なくとも、我にはもう通じぬ。
そして。
『人魚の存在自体、非常に限られた場所に僅かな存在を感じる程度。男が葬った人魚と、この大男の遭遇した人魚は、同個体と見なして間違いありません』
本当はもう2体いたけれど、それらも、もういない。
宿の主人は、ゆっくりゆっくり俯くと、またしばらくじっと何か、今度は堪えるように、深く深く息を吸っては吐き。
それは、この部屋に居る中では、一番長い沈黙の時間になったけれど。
長年に渡り心に沈殿していた何かを、落ち着かせるように、閉じ込めるように、目を瞑っているため。
我等も、じっと、微かな秋の気配の混じり始めた海風を感じながら待てば。
宿の主人は、やがて目を開き、顔を上げ。
また我等を順繰りに眺めてから、口を開きかけたけれど。
「……」
男がテーブル越しに宿の主人に煙草を差し出せば。
「……ああ何度も、申し訳ない」
宿の主人も、野太い腕を伸ばし。
「……お?」
ただぴたりと止まり、それ以上、伸びない。
(?)
「どう、されました?」
男だけでなく、我も狸擬きも、宿の主人を見上げれば。
「そ、それが」
本人すらも、困惑を込めた瞬きの後に。
「こ、腰が……抜けてしまった様で……」
なんと。
倒れたと思ったら、今度は腰が抜けたと。
「なんの、見た目とは打って変わって頼りないの」
男は口にしなかったのに、もう口を閉じて良いと伝え忘れたため、狸擬きが、まんま我の呟きを口にしてしまい。
男がこらと慌てるも。
「いやいや全く。お言葉通りです、情けない限りで……」
面目ないと自身の頬をごしごしと撫でる宿の主人は。
何とか座面に両手を付いて立ち上がろうと試みるも。
「……ふっ……」
立ち上がる代わりに、肩を身体を揺らし、籐のソファをギシギシ鳴らし始めた。
「フン?」
どうやら、
「……っ」
声を殺して笑っている。
「ぬ?」
気でも触れたか。
「フーン」
安堵したのでしょうと。
なるほど。
こびりついていた不安と恐怖が解消された反動であるか。
言い換えれば、目の前の大男が、我等の話をきちりと信じてくれた証拠でもあり。
それが表には、笑いという至極単純な方法で現れた様子。
「こ、困りました。いや、ほ、本当に……んっんふっ」
おやの。
案外、笑い上戸であるか。
「笑いが、はっ……止まらっ……んっふ」
このままではソファーが壊れてしまうと、確かに慌ててはいる。
実際。
我等と話をするために、その巨体を支えるための、わざわざ自分専用の椅子を持参していたくらいである。
今も、笑いを堪えようとしている宿の主人がそれでも身体を揺らす度に。
みちりきちりと強く編まれた籐のソファが、少しずつ沈んで行き。
また、一際迫力のある顔で笑う宿の主人を見上げる我々の目線が、徐々に下がっていくという、まこと“シュール”な姿に釣られ。
「くふふっ」
「フーン♪」
チーフが、マダムの代わりに主人の様子を伺いに来るまで、男も含めて、皆で笑い転けていた。




