85粒目
宿の主人は、しばらくは夢だと思ったと。
それは、
「普段は、全く思い出せないからです」
ふぬ?
ほんの、何気ない一場面。
仕事を手伝って船に乗っている時も、遠い街の彼女を想い、海を眺めている時も。
思い出すのは。
「浅瀬は苦手よ」
「ぉあ……っ?」
彼女が現れた時だけ。
「身体が大きくなってる」
「まだ成長をしていのね」
「人は思ったより短い時間で大きくなるからびっくりするわ」
覚えてる限り、そのとりとめのない会話からしても、邂逅は人魚がこちらの成長を驚く程度の、この両手に満たないくらいのものだった。
その日は。
漁師としては非常に珍しく温厚な父親と、網に付いた貝や藻を黙々と外していた時。
その日はなぜか弟がおらず。
「お前も、そろそろ嫁さんを貰う時期か」
2人きりなせいか、父親のそんな軽口に。
まだ早いと返したけれど。
「お前の真面目かつ豪快な働きっぷりに、うちの娘はどうかと、母さん伝にもう幾つか話が来ているよ」
(……そうか)
父親は、自分にそんな話をするために、弟に別の仕事を頼んだことを悟った。
「……」
嫁。
宿の主人が思い浮かべたのは、遠い街に住む、淑やかで小柄な彼女の笑顔。
一方で。
目の前には、ただ息子の幸せを願う、父親の眼差しと微笑み。
(俺は……)
「俺は……」
何も言えず。
何も、出来ず。
その日の仕事を終えれば、少し出てくると父親と肩を並べて家には帰らず、いつかの様に舟に乗り込み。
沖に出て揺蕩えば。
「久しぶりね」
耳に届くだけであまりに心地よく、投げ掛けられる言葉の意味は、だいぶ遅れて理解出来る。
あぁなぜ。
自分は、この彼女をことを覚えていられないのか。
じっと見つめ返すと。
「今日は少し元気がないみたい」
初めて会った時みたいねと、人魚は記憶力もあるらしい。
見つめれば、長い睫毛で瞬きの後に首を傾げ。
父親にそろそろ嫁を貰えと促されたこと、けれど自分には遠い街に住む想い人がいることを、とつとつと不器用に伝え。
伝えてから、海に住む人魚に人の事情が伝わるかと案じれば。
人魚は、案外人の営みを理解しているらしい。
「お父様に、好きな子がいることを伝えないの?」
不思議そうに、艶かしく眉を寄せられ。
そんな仕草一つでも、心が揺らぎそうになる。
「彼女とは、身分が違いすぎする」
なにより、独り善がりな感情でしかない。
人魚は、呆れるかと思いきや。
「そうね。人は、大変だものね」
ぷかりと仰向けに浮かぶ。
そうなればいっそう露に、目に毒ですらあると感じる、揺れる乳房から目を逸らすと、人魚は瞳を半円型に細め。
「また会いに来るわ」
音もなく、ぬるりと沈んで消えて行く。
助言をするわけでも、諭すわけでもなく。
残るのは、浮かんでくる幾つかの泡だけ。
「ねぇ、一緒に来ない?」
人魚にそう誘われたのは、それから間もなく。
あれから、父親から嫁の話を出されてから、一月も経たずに、今の妻が、大きな鞄を持って自分の前に現れた。
数日の間に婚約が決まり、一先ずはこれからの婚礼の準備や用意のため、彼女が両親と共に街へ帰った日。
馬車を見送った宿の主人は、そのまま1人、沖へ出た。
しばらくはもう、こんな風に1人で居る時間はなくなるだろうと。
怒涛の出来事に、現実味を感じられずにいると。
「久しぶり、でもないかしら?」
人魚に、彼女との婚約が決まったと報告すると。
「あら」
そう驚いた様子もなく。
代わりに、唐突に。
なんの前触れもなく。
「ねぇ、私と一緒に海に来ない?」
と誘われたのだと。
宿の主人は、その人魚からの誘いは、
“自身の意思を試すため”
だと思ったと感じたと、灰皿に、指の中で燻っていた短い煙草を押し付けた。
人魚は魅力的で、十二分にその魅力を解った上で、自分はこの人魚に試されていると。
だからはっきり、その場で、
「俺は地上で彼女と暮らす」
と答えたのだと。
それでも。
「そう?残念だわ。でもね、いつか迎えに行くわ」
と人魚はたおやかに口角を上げたのだと。
(ぬぬん)
我は思う。
いかにも“人魚らしい”と。
人の話など、陸に住む者の話など、端っから聞いていない。
「私が、あなたが営む、あの高台の建物に、2本足になって歩けるようになったら」
なったら。
「迎えに行くわ」
迎えに。
「そうしたら」
そうしたら?
「一緒に、海で暮らしましょう」
返事はしなかった。
はず。
記憶が曖昧で、気付けば人魚はおらず、西陽が沈みかけている夕刻だった。
それ以来。
自身でも想像していた通り。
1人で呑気に小舟に乗れる様な暇は訪れる暇など砂粒程にもなく。
それは。
「お、俺が、宿の主人になるんですかっ!?」
声が裏返ったあの日から決められていたこと。
瞬きの間に季節は巡り。
「大変に申し上げにくいのですが。どうやら、オーナーのお出迎えや給仕は、お客様がとても萎縮してしまう様なのです……」
言いにくそうにチーフに指摘され。
ならばと裏方に回り、代わりに裏方の全てを仕切ることに尽力し。
その時はまだ。
なるべく客との接触を避けつつも、昼間に仕事をしていた。
けれど。
全くの不意に。
「1人で訪れた若い女の客」
の訪問で。
どうしてか忘れていた、人魚の言葉を、はたと思い出し。
“あの時”
自分は返事はしなかった。
確かに、返事はしなかったはず。
でも、その記憶がない。
何度も何度も思い返しても、そこだけは、どうしてか記憶が飛んでいる。
もし。
もし、人魚の望む返事をしていたら。
この宿も、仲間も、自分のために両親の元から、華やかな街からも出て来てくれた妻とも。
ただ呆気なく、永遠に会えなくなる。
あの声は、人魚の囁きは、どんなに意志が強くとも抗えない睡魔に近い。
そしてそう遠くない未来、2本足で宿に現れた人魚に、
「さぁ、行きましょう?」
と両手を伸ばされたら。
気付けば西陽がひたすら眩しかったあの時の様に、何も思わず、何も感じないまま。
自分は。
この宿から姿を消しているだろう。
それは。
とても。
(嫌だ……)
砂浜へ行けば、人魚が、沖からこちらを見ている気がした。
どうすればいいか。
それならば、自分が今まで以上に、
「訪れた客を迎えなければいい」
のだ。
例え、人魚が迎えに来ても。
出迎えなければ、諦めて帰るかもしれない。
子供のように浅はかで考えなしな、あまりに単純すぎる回避方法でしかないけれど。
いつか自分を迎えに来るかもしれない人魚に対し、それくらいしか、他に避ける方法が思い付かなかった。




