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85/104

85粒目

宿の主人は、しばらくは夢だと思ったと。

それは、

「普段は、全く思い出せないからです」

ふぬ?

ほんの、何気ない一場面。

仕事を手伝って船に乗っている時も、遠い街の彼女を想い、海を眺めている時も。

思い出すのは。

「浅瀬は苦手よ」

「ぉあ……っ?」

彼女が現れた時だけ。

「身体が大きくなってる」

「まだ成長をしていのね」

「人は思ったより短い時間で大きくなるからびっくりするわ」

覚えてる限り、そのとりとめのない会話からしても、邂逅は人魚がこちらの成長を驚く程度の、この両手に満たないくらいのものだった。


その日は。

漁師としては非常に珍しく温厚な父親と、網に付いた貝や藻を黙々と外していた時。

その日はなぜか弟がおらず。

「お前も、そろそろ嫁さんを貰う時期か」

2人きりなせいか、父親のそんな軽口に。

まだ早いと返したけれど。

「お前の真面目かつ豪快な働きっぷりに、うちの娘はどうかと、母さん伝にもう幾つか話が来ているよ」

(……そうか)

父親は、自分にそんな話をするために、弟に別の仕事を頼んだことを悟った。

「……」

嫁。

宿の主人が思い浮かべたのは、遠い街に住む、淑やかで小柄な彼女の笑顔。

一方で。

目の前には、ただ息子の幸せを願う、父親の眼差しと微笑み。

(俺は……)

「俺は……」

何も言えず。

何も、出来ず。

その日の仕事を終えれば、少し出てくると父親と肩を並べて家には帰らず、いつかの様に舟に乗り込み。

沖に出て揺蕩えば。

「久しぶりね」

耳に届くだけであまりに心地よく、投げ掛けられる言葉の意味は、だいぶ遅れて理解出来る。

あぁなぜ。

自分は、この彼女をことを覚えていられないのか。

じっと見つめ返すと。

「今日は少し元気がないみたい」

初めて会った時みたいねと、人魚は記憶力もあるらしい。

見つめれば、長い睫毛で瞬きの後に首を傾げ。

父親にそろそろ嫁を貰えと促されたこと、けれど自分には遠い街に住む想い人がいることを、とつとつと不器用に伝え。

伝えてから、海に住む人魚に人の事情が伝わるかと案じれば。

人魚は、案外人の営みを理解しているらしい。

「お父様に、好きな子がいることを伝えないの?」

不思議そうに、艶かしく眉を寄せられ。

そんな仕草一つでも、心が揺らぎそうになる。

「彼女とは、身分が違いすぎする」

なにより、独り善がりな感情でしかない。

人魚は、呆れるかと思いきや。

「そうね。人は、大変だものね」

ぷかりと仰向けに浮かぶ。

そうなればいっそう露に、目に毒ですらあると感じる、揺れる乳房から目を逸らすと、人魚は瞳を半円型に細め。

「また会いに来るわ」

音もなく、ぬるりと沈んで消えて行く。

助言をするわけでも、諭すわけでもなく。

残るのは、浮かんでくる幾つかの泡だけ。



「ねぇ、一緒に来ない?」

人魚にそう誘われたのは、それから間もなく。

あれから、父親から嫁の話を出されてから、一月(ひとつき)も経たずに、今の妻が、大きな鞄を持って自分の前に現れた。

数日の間に婚約が決まり、一先ずはこれからの婚礼の準備や用意のため、彼女が両親と共に街へ帰った日。

馬車を見送った宿の主人は、そのまま1人、沖へ出た。

しばらくはもう、こんな風に1人で居る時間はなくなるだろうと。

怒涛の出来事に、現実味を感じられずにいると。

「久しぶり、でもないかしら?」

人魚に、彼女との婚約が決まったと報告すると。

「あら」

そう驚いた様子もなく。

代わりに、唐突に。

なんの前触れもなく。

「ねぇ、私と一緒に海に来ない?」

と誘われたのだと。

宿の主人は、その人魚からの誘いは、

“自身の意思を試すため”

だと思ったと感じたと、灰皿に、指の中で燻(くすぶ)っていた短い煙草を押し付けた。

人魚は魅力的で、十二分にその魅力を解った上で、自分はこの人魚に試されていると。

だからはっきり、その場で、

「俺は地上で彼女と暮らす」

と答えたのだと。

それでも。

「そう?残念だわ。でもね、いつか迎えに行くわ」

と人魚はたおやかに口角を上げたのだと。


(ぬぬん)

我は思う。

いかにも“人魚らしい”と。

人の話など、陸に住む者の話など、端(はな)っから聞いていない。

「私が、あなたが営む、あの高台の建物に、2本足になって歩けるようになったら」

なったら。

「迎えに行くわ」

迎えに。

「そうしたら」

そうしたら?

「一緒に、海で暮らしましょう」

返事はしなかった。

はず。

記憶が曖昧で、気付けば人魚はおらず、西陽が沈みかけている夕刻だった。

それ以来。

自身でも想像していた通り。

1人で呑気に小舟に乗れる様な暇は訪れる暇など砂粒程にもなく。

それは。

「お、俺が、宿の主人になるんですかっ!?」

声が裏返ったあの日から決められていたこと。

瞬きの間に季節は巡り。

「大変に申し上げにくいのですが。どうやら、オーナーのお出迎えや給仕は、お客様がとても萎縮してしまう様なのです……」

言いにくそうにチーフに指摘され。

ならばと裏方に回り、代わりに裏方の全てを仕切ることに尽力し。

その時はまだ。

なるべく客との接触を避けつつも、昼間に仕事をしていた。

けれど。

全くの不意に。

「1人で訪れた若い女の客」

の訪問で。

どうしてか忘れていた、人魚の言葉を、はたと思い出し。

“あの時”

自分は返事はしなかった。

確かに、返事はしなかったはず。

でも、その記憶がない。

何度も何度も思い返しても、そこだけは、どうしてか記憶が飛んでいる。

もし。

もし、人魚の望む返事をしていたら。

この宿も、仲間も、自分のために両親の元から、華やかな街からも出て来てくれた妻とも。

ただ呆気なく、永遠に会えなくなる。

あの声は、人魚の囁きは、どんなに意志が強くとも抗えない睡魔に近い。

そしてそう遠くない未来、2本足で宿に現れた人魚に、

「さぁ、行きましょう?」

と両手を伸ばされたら。

気付けば西陽がひたすら眩しかったあの時の様に、何も思わず、何も感じないまま。

自分は。

この宿から姿を消しているだろう。

それは。

とても。

(嫌だ……)

砂浜へ行けば、人魚が、沖からこちらを見ている気がした。

どうすればいいか。

それならば、自分が今まで以上に、

「訪れた客を迎えなければいい」

のだ。

例え、人魚が迎えに来ても。

出迎えなければ、諦めて帰るかもしれない。

子供のように浅はかで考えなしな、あまりに単純すぎる回避方法でしかないけれど。

いつか自分を迎えに来るかもしれない人魚に対し、それくらいしか、他に避ける方法が思い付かなかった。



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