84粒目
マダムの話では。
「この宿を開業する辺りからでしょうか。
その辺りは、特にもう忙しさが極めていまして、全く正確ではないのですけれど……」
秋から春に掛けて、別荘の改装と同時に、接客や厨房の仕事や流れを教え込まれ、初夏に宿を開業した当初は。
朝から晩まで、いつ寝たのかも覚えておらず。
夏をなんとか乗り越え、秋になり、客足が落ち着けばやっとお客様との会話を頭に留めておけるくらいの余裕が出来。
忙しいのは自分だけではなく、どうやら人並み以上の威圧感を与えてしまう夫も。
裏方に回る代わりに、あまりの忙しさで辞めていった従業員の穴埋め分も働いていたため、多忙さはマダムと同等かそれ以上か。
愛する夫と、同じベッドで並んで眠っているのだと、やっと意識することが出来た日。
本当に、どれだけ忙しく余裕もなかったのかと、ふと笑ってしまった時。
「先に眠っていた夫が、その日は凄くうなされていて……」
互いに、接客のあれこれ、品物や備品が足りない、客室が用意できないなんて夢を見て飛び起きることは幾度もあったけれど、悪夢でうなされることはなく。
「その日に、何かあったかしらと思い返したら」
客が1人訪れていた。
妙齢の女性客。
「旦那と一緒に来る予定だったんですけど、旦那の仕事が納期に間に合わなくて」
1人で先に来ちゃったんです、薄情な嫁なのでと笑う女性客と、たまたま、修理した椅子を食堂に運んでいる時に遭遇した。
出来事と言えばそれくらい。
夫は、納期の言葉に反応したのか、関係ないのか。
その後も、たまに女性の1人客はたまに訪れ、
「私?気儘な行商人なの。でも、たまにはリラックスしたいじゃない?」
とやってきたのは気さくな女性。
厩舎の方で宿の主人がかち合ってしまった時は、特にうなされることもなかったと。
「それから、少し気にするようにしていたんですけど…」
夫は、海の方に行きたがらず、お客様の少ない時期にせがめば、散歩には一緒に行ってくれはするけれど。
「痛い程に手を繋がれて、絶対離してくれないんです」
海に何か怖い思い出でも出来たのかと、思うことも聞きたい気持ちもあったけれど。
「私がこちらに来てからは、怖い思いをするくらいの時間、例え夫が1人で海に来たことはあったとしても、私には心当たりがなくて……」
勿論、胸はざわつきはしたと。
それでもマダムは。
なんの報せなく、いきなり身一つで押し掛け、相手の事情も鑑みずに、自分を嫁に貰って欲しいとせがみ。
更に当時の宿の主人は、漁師の仕事から、なんの知識も覚悟もないままに、宿のオーナーの地位に据え置かれ。
それでも、妻にも周囲にも、弱音の1つも吐かず。
それどころか。
「いいや。俺は、ただ君を想うだけで、何も行動には移せなかった」
と自分を想う一心で、たった1人でこの土地までやってきたマダムを、それはそれは大事にしてくれ。
「そんな夫への感謝と同時に大きな引け目もあって、夫が話してくれるまではと、何も聞かずにいようと決めていたんです」
でも……と再びの溜め息。
1人客の女。
仕事ではなく、あくまでも、休暇などの目的な様子。
(ぬぬん)
海を怖がる、ではなく、やはり酷く警戒している様子。
そんなマダムに、何て言葉を返せばいいものかと、考えあぐねている男の裾をくいくいと引けど。
「ん?」
口を開く前に、部屋の扉が控え目に叩かれる音。
立ち上がるにも、力が抜けてしまった様子のマダムの代わりに男が扉へ向かえば。
「マダム。申し訳ありませんが、そろそろお客様のお出迎えをお願いいたします」
顔を覗かせたのはチーフ。
「でも……」
マダムは、当然大きな躊躇を見せたけれど。
「お気持ちは汲ませて頂きます。ですが、本日は、お得意様もいらっしゃいますので……」
マダムの出迎えは必然な様子。
「目を覚ましたら、こちらから声を掛けます」
の男の言葉にマダムは、無理に笑みを何とか作り立ち上がると。
「度々、多大なご迷惑をお掛けしてしまっていますが、どうか主人のことをお願いいたします」
初老の男と共に頭を下げ、夫を振り返りながら部屋を出て行った。
宿のオーナーが目を覚ましたのは、それからものの数分後。
「う……」
低い呻きと共に目を覚まし。
「フーン?」
顔を覗き込む狸擬きを。
「……?」
黙って狸擬きを見返す宿の主人は。
男が、吐き気などは?と問うと。
「……いえ、大丈夫です」
困惑した顔で、手を付いてのしりと起き上がり。
「ここは……?」
客室な事に更に怪訝な顔をし。
男が、あなたはお客様の姿を見て、倒れたと伝えれば。
「……」
無言で額を抑え、それでも、何か糸が切れたように、ぐたりとへたり込むように頭を垂れた。
何とか籐のソファに座らせ、水を飲ませると。
「うちに泊まって貰っているせいで、お客様たちには、度重なるご迷惑をお掛けしている様です」
と俯きながら両手で顔を覆う宿のオーナーは、妻と同じことを言う。
隠しきれないその顔色は未だに悪く。
黙っていれば、やがて顔から膝の上で組まれた太い指も、皮膚に爪が食い込む程強いものであり。
(ぬぬん)
「の」
「フン?」
「少々億劫であろうけれどの、我の代わりに、言葉を発しては貰えぬかの?」
隣に腰かける狸擬きに視線を向ければ。
「フーン?」
よいのですか?と狸擬き。
「構わぬの」
狸擬きは、フンと鼻で息を吐き。
我の言葉に頷いてから、
『主様は、貴様はもしや“人魚と会ったのか”と訊ねている』
と口を開いた。
言葉だけは、我以外に対しての敬意を持たぬ従獣。
宿の主人は、
「……?……?」
狸擬き、我、男と順番に視線を向けてから。
「……え?」
再び狸擬きに視線を戻し、凝視している。
無自覚であれどその眼光は鋭く、やはり並々ならぬ冒険者の力量と才能を秘めていそうであり。
「???」
ただ眼光の鋭さとは裏腹に、酷く混乱している宿の主人に、男が苦笑いで、彼は少し特殊な従獣なんですと補足をしてくれる。
「……は、ははぁ」
宿の主人は、もさりと座る狸擬きに改めて視線を向けるも。
(ふぬ)
我の隣に座る、物珍しさすらあれど見た目も色合いも全く垢抜けぬ獣が。
“人の言葉を放つ”
その事実に、いい意味で気を持っていかれ。
宿の主人の、皮膚を破き、血が滲まんとする程に強く握られていた指と手の力が抜けている。
そんな自身から目を逸らさない宿の主人に。
狸擬きは、フンスと鼻を鳴らすと、
『我が主様は、貴様に“人魚と会ったのか”と聞いている』
再びの問いかけをすれば。
「……ええと。えぇ、私が人魚と……人魚っ!!」
獣が人語を喋る衝撃から立ち直ったものの、今度はその問い掛けられた意味を頭で咀嚼するなり。
籐のソファが大きく軋む音を立てる程に、身体を強張らせた。
「な、なぜ……、でしょう」
ほどかれていた指は、今は自身の身体を支えるように、それぞれの膝を強く掴み。
眼光で小動物程度ならば貫けるのではと思う位の視線を、我に向けて来た。
『主様は、貴様が人魚を恐れているのではないかと推測をなされている』
「……」
宿の主人は、吾から視線を逸らさぬまま。
「……あなたは」
我は。
「お嬢様は、何を。……何をご存知なのですか?」
奥歯を震わせた。
(ふぬん)
ただの当てずっぽうでしかなかったけれど、たまには我の勘も仕事をする様子。
狸擬きに囁けば。
『女の1人客を恐れ、海を警戒する素振り。人と会話の可能な人魚か、もしくはその辺りにでも、何か唆されでもしたのか間抜け、とは主様のお言葉です』
のの。
我は間抜けとまでは言っておらぬ。
宿の主人は、幸いにも間抜けの一言より、その手前の言葉の処理に追われ耳には入っていない。
「あのの、我等はこのお宿で世話になっている身なのであるから、口を慎むの」
今追い出されても困るのである。
スンと鼻を鳴らす狸擬き。
男は静観の構え。
代わりに煙草を取り出し、宿の主人が取りやすいように腕を伸ばして勧めている。
「……あ、あぁ、申し訳ない。ありがたく頂戴します」
機械的に煙草に手を伸ばす宿の主人は、少しばかり震える手で煙草を火に灯すと。
やはり身体が大きいと肺も大きいのか、深く深く吸い込めば、長い紫煙を足許に向かって吐き出し。
あっという間に煙草が灰になる。
男がもう1本勧め、恐縮しつつ受け取った宿の主人は。
「……1つだけ、先に質問を許可して貰いたいのですが」
「構わぬの」
頷けば。
「……あなたたちも、人魚に会ったのですか?」
宿の主人。
狸擬きが我の言葉を待つように耳をチラチラ揺らす。
「会ったの」
もう一度頷けば。
宿の主人は、眉間に皺を寄せ、目を閉じると。
「えぇ……」
唇を歪め。
「仰る通り。……私は、人魚の訪問を恐れているのです」
高台には珍しい、生温い風が抜けた。
人魚と初めて会ったのは、漁師としてはまたまだ半人前も満たない、船には乗らせて貰えるけれど、まだ手伝いに毛が生えた程度のことをしていた時。
その日は、友人と喧嘩をした。
もう原因も覚えていないくらい、下らない理由だったと。
腹立ち紛れに漁港へ向かい、大きな漁のためではなく、主に見回りや点検用に用意されている小舟に1人で乗り、勿論、誰の許可もなく勝手に沖に出た日。
肌に吹き付ける海風は冷たく、それは秋口か冬の始め。
揺れる小舟から、ぼんやり水平線を眺めていたら、
「1人なの?」
ふと声がした。
風の冷たさから耳を包むような、柔らかな、花の蜜を垂らしたような声。
「え?」
辺りを見回すと、海面から女が突き出すように浮いていた。
もし。
あの時。
人魚よりも先に、今の妻と出会っていなかったら、危険なくらいに魅力的な女性だったとも。
水面下に見えるのは立派な魚の尾。
ゆらゆら、ゆらゆらと。
「1人で、どうしたの?」
その、気を抜けば全てを捧げてしまいそうな、魅惑的な音色の様な声に。
宿の主人は、友人と喧嘩したことを話したけれど。
もう、もうそんな些細で些末なことよりも。
目の前の、人魚に全ての興味を持っていかれ。
人魚は、宿の主人の問い掛けに。
普段は、漁の網には引っ掛からない遠い場所にいる。
きっとあなたの想像よりも、だいぶ遠く深いと思われる深海。
たまには太陽でも眺めようかと上がってきたら、ぽつりと浮かぶ小舟が見え、子供1人でいることを不思議に思い声を掛けてみたと。
人魚は、笑った。




