83粒目
早朝。
「……」
目を覚ますも、今朝は我の感じられる範囲に宿の主人の気配はなく。
それでも身体を起こせば、
「フーン……?」
狸擬きもベッドの上で伸びをして起き上がる。
「の、静かにの」
寝巻きのままテラスから外に出て、建物を大きく迂回すれば。
「のの、おはようの」
宿の主人は、今朝はジャスミンの花を摘んでいた。
「おっ……?」
テテテと駆け寄れば。
「これはこれは、おはようございます」
わざわざカゴを置いて頭を下げてくれる。
「の」
寝間着の裾を摘まんでカーテシーをしてみせれば、狸擬きも隣で前足を交互に重ね、つんと鼻先を上げる。
宿の主人は、地獄の釜をかき混ぜる鬼の様な笑顔で、
「朝から可憐なご挨拶を頂き、今日はとてもいい1日になることが約束されました」
分厚い胸に手を当てる。
「ふふぬ♪」
ご機嫌な我は、宿の主人と一緒に、そのままジャスミンの花を摘むことにした。
「先日は、妻の花摘にも付き合って頂いたそうで……」
忙しいこの時期は人海戦術も使えず、暇を見ては摘んでいるのだと。
「昨夜も、蛇の評判が思いの外、お客様たちに好評だったと聞きました」
宿の主人的には、蛇料理は賭けでもあったらしい。
「漁で網にでも引っ掛かったら、次は生きたまま卸して貰おうかと話しています」
森の蛇とどれくらい違うのか、今更ながら食べてみればよかったかのと思いつつ。
我は、手の届く範囲の花を詰み終えれば。
「んしょの」
狸擬きの背中に乗り、ジャスミンを摘む。
宿の主人の話では、ジャスミンは香り高いこの明け方に摘むのが一番なのだと。
しかし。
「いかんせん人手が足りず」
昼間も手が空いた者が摘んでいると。
それでも、昼間でも充分に濃い芳香を放っていたため、加工には耐え得る模様。
「……ふぬ」
宿の客用のテラス側は海が一望できるようになっているけれど、それ以外は、建物の傷む原因となる、潮風を避けるためもあるのだろうけれど。
背の高い木々で覆われ、更に内側はジャスミンなどで目隠しのように囲いが出来ている。
当然、我が狸擬きの背中で背伸びをしても、海が見えるわけもなく。
何なら、宿の主人の背丈すら越える。
潮風に負けじと土壌がいいのか。
「こーら」
「のの?」
「お仕事の邪魔をしたら駄目だろう」
目を覚ましたらしい男が、我がいない事に気付くも、もう慌てる事もなく捜しに来た。
狼男はまだ眠っている様子。
「ぬぬ」
邪魔はしておらぬ、手伝いはしているとカゴを指差しても。
男が謝り、宿の主人は、
「いえいえ、仕事が丁寧で早くて助かっています」
と褒めてくれる。
仕方なさそうに片眉を上げる男に。
(さては目を覚ました時に我がおらず寂しいのであろうの)
と思えども、口には出さず。
なぜか。
(寝起きで、“他の男”の元へ向かっているのは事実であるからの)
「の、上が届かぬの」
狸擬きの背中から、男の抱っこで背の高い部分のジャスミンを摘み。
「花摘むくらいならいくらでも手伝うの」
暇な身である。
宿の主人は恐縮しているけれど。
『皆、早起きだな……』
腹を掻きつつ狼男までやってきた。
朝食の時間まで、皆でジャスミンを摘み。
お陰で捗りましたと宿の主人は一見そうは見えない、ホクホクとした顔をしてカゴを抱える。
ただ。
「先は長いの」
敷地を囲む一角とは言え、まずその敷地が広い。
朝食後にも、主に暇な我と男が手伝う約束をして別れ。
村へ降りる狸擬きと狼男を見送り、我と男は花摘に精を出せば。
「あれー、お嬢様じゃないですか?」
食堂の若い男が、手隙の間に花を摘みに来た。
街に住む恋人から、婚約が決まったと手紙が届きましたとぼやく若い男を、男が慰め。
「おー?本当にお客様に手伝わせてしまってるんですね」
午後は食堂の四角い男が、カゴを抱えてやってきたり。
「まぁま、休憩して下さいませ」
マダムには、部屋のテラスで、マダムお手製のカタラーナなる冷たい甘味を出して貰えたり。
少しばかり太陽の位置が傾き始め、珍しく空に雲のかかった次の日。
「フーン」
今日はわたくしめは休みなのですと豪華な朝食を口に放り込みながら狸擬き。
おやの。
「フーン」
この恵まれた毛量のため、暑さに弱いと思われ、気遣われた様子ですと。
なるほど。
見た目からして暑苦しいからの。
「フーンッ!」
憤慨狸。
ののん。
何度も言うけれど、心を読むのはやめて欲しい。
『行ってくる』
飛ぶように坂を駆け降りていく狼男を見送れば。
「お客様に手伝いばかりさせて、チーフに怒られてしまいそうです」
ジャスミンを摘みながら、そこいらのトカゲ程度なら丸呑みしそうな顔で苦笑いするのは。
いつもならば、とうに眠っている時間のはずの宿の主人。
「お客様を働かせて寝ているわけには行きませんから」
睡眠時間を削っている様子。
狸擬きの背中に乗り、摘み摘みとジャスミンを摘みながら、チーフは独り身を貫いているなどの話を聞いていると。
「オーナー」
噂をすれば。
そのチーフが、足早にやって来た。
足を止めてから、我等に小さく会釈してくてから。
「オーナーに、お客様が……」
「私に、ですか?」
弟たちでしょうか?
と宿の主人が首を傾げ。
宿に来るのは何も客だけではない。
それでも、対面となる仕事はマダムとこのチーフが請け負っていると聞いている。
チーフも、
「いえ。それが、若い女性のお客様でして……」
困惑気味に、相手は、ただ目の前の宿の主人の名を告げてきたと。
「……」
ギュッ、いや、グッであるか。
短く聞こえたそれは。
(……ぬ?)
宿の主人の大きな喉仏の主張する太い喉から、呼吸が詰まったような、不自然な音。
「?」
我だけでなく、男も、狸擬きすら、宿の主人を見上げ。
(なんの……?)
それは。
宿の主人の握られた拳が、大きく震えているからであり。
ただ。
その震えは、怒りからくるものではなく。
何か。
(酷く恐れておるの……)
細く小さな目を見開いてはいるものの、顔は明らかに血の気が引いている。
「……オーナー?」
どうされましたかとチーフが駆け寄り声を掛けるも。
「いや。……何でも」
何でもなくはなさそうに目は泳ぎ、呼吸は荒い。
(ぬぬん)
「の、背に乗せるのの」
我は隣に立つ狸擬きに声を掛け。
「フーン」
狸擬きは我が乗りやすいように短い足を畳み。
「うんしょの」
狸擬きに股がれば。
「どうした?」
男が怪訝そうに訊ねてきたため。
「出歯亀をしてくるの」
我は男に対してニーッと笑って見せる。
「で、でばか?……それは何、……あっこら!?」
男に止められる前に、狸擬きがビュンッ走り出す。
あの愛妻家と思われる宿の主人に、女の影。
「フーン」
あの大男の恐怖は本物でしたと狸擬き。
「そうの」
もし、宿の主人が適当に遊んで放り出した女でもやって来たのであれば、そこには必ず焦りもあるはずであり。
けれど。
宿の主人から感じたのは、ただ、ただ恐怖のみ。
それ以外は感じられなかった。
狸擬きが宿の角を曲がり、大きい扉から建物の中に入れば。
(のの)
もし修羅場ならば大惨事であろう、若い女とマダムが対面している。
若い女は両手を口に当て、コクコク頷いてから肩を竦めてる。
表情は、少しの疲れは見えるもそれだけ。
「……」
話は済んだのか、マダムが女を窓際のテーブルを勧め、建物の中に入ってきた我等に気付くと、
「まぁま、お手伝いありがとうございました」
狸擬きに跨がった我の姿に、小さくはしゃいでいる。
「の」
人を指差してはいけないと男には怒られそうだけれど、言葉が通じぬのだ。
「の、あれは誰の?」
マダムに訊ねれば。
「村に、夫と同じ名前の方を訪ねて来たそうなんです」
おやの。
「でもこの辺りでは、夫の方が名を知られているので、教えてくれた人も、宿のオーナーのことだろうと思ってしまったらしくて」
なんの。
種を明かせば肩透かしなもの。
ただ。
「フーン」
狸擬きが振り返り。
「あらっ、あなた、どうされましたの?」
昼間に、客の出入りのある大きな扉から現れた夫の姿に、マダムは軽く飛び上がりつつ驚いている。
その宿の主人は、頭から全身に汗を流している。
それは到底、広い敷地を走ってきたからだけ、とは思えぬ汗の量を流し、息も肩でしている。
「……あなた?どこか痛むのですかっ?」
駆け寄るマダムに、宿の主人は縋る様に身体を傾けながらも。
窓際に佇む若い女を見て。
小さな目を見開き。
「……」
唇を痙攣させ、大きく、大きく息を吐いた後。
「あなたっ!?」
言葉を放つことはなく、その場に膝を付き、床に倒れ込んだ。
宿の主人を引き摺って、取り急ぎ我等の借りている部屋へ運んだのは。
受付の奥は宿の主人を横にさせておく広さはなく。
人目に付く食堂に寝かせるわけにも行かず。
我等の部屋は一番奥であれど、人目を避け、宿の主人の巨体を平らな床に引き摺って横たえて置ける場所としては、まあまあ適した場所であったからであり。
狼男でもいれば多少は誤魔化せたのであろうけれど、今は不在。
男が形だけ片腕を担ぐようにして、実際は我がずるずると巨体を引き摺ったけへど、大した重さはない。
部屋の床に俯せのまま寝かせ、せめて枕を敷いてやれば、濡れタオルとグラスに入った水を運んできたマダムは。
「お嬢様は、力持ちでもあるのですね」
と感心してくれるけれど。
さすがに笑みもなく。
男の問いにも、
「いいえ。今まで、こんなことは一度も……」
と眉間に深い皺を寄せてかぶりを振り。
「……」
ただ、どうしてか。
ここからは壁に遮られて見えない海の方を振り返った。
「どうの?」
寝かされた宿の主人の匂いをスンスンと満遍なく嗅いでいた狸擬きに問えば。
「フーン」
何かしらの酷い衝撃で、気を遠くに飛ばしているだけな様子と狸擬き。
男に伝えると、男がマダムにそれを伝え。
「そうですか……」
胸に手を当てるマダムの安堵の溜め息。
最愛の夫が倒れたとあれば、ここは任せてお主は仕事に戻れとも言えず。
「の」
「?」
「海に何かあるのの?」
代わりに、マダムを見上げて問えば。
「……?」
マダムは首を傾げて男を見上げ。
男が問うてくれれば。
マダムは目を見開き。
「……え、えぇ」
倒れたままの夫を見下ろすと。
「夫は……。もうずっと」
ずっと。
「海と、“お客様の訪問”を怖がっているみたいなんです……」
膝を付き、夫の肩にそっと触れた。




