77粒目
明け方は、まだ彼誰時か。
外から、微かな、何か聞き慣れぬ音。
「……?」
じゃきじゃき、バサバサ。
(なんの)
そっと男の腕から抜け出し、半分開いたままの窓からテラスに出れば。
「……フーン?」
さすがに我の従獣を名乗るだけはあり、どうされましたか主様と目を覚ました狸擬きも、モタモタとやってきた。
「なんの、音がするのの」
音の方に目をやれば、離れた場所に大柄な男の背中。
こんな時間に、敷地に植えている木々の剪定をしている。
建物からはだいぶ離れているため、客たちには気づかれぬであろうけれど。
この宿には、長めに滞在をさせてもらっている。
それでも。
一度も姿を見たことがない後ろ姿。
(あれは、宿の主人であるかの)
決して客の前に姿を現さないと聞く宿の主人。
こんな時間から、客たちが動き出す前に、せっせと仕事に励んでいる様子。
少し眺めていたけれど、こちらを振り向く気配に、
「邪魔をしてはならぬの」
踵を返せば。
「フーン」
もう一眠りしましょうと狸擬き。
「の」
ベッドによじ登れば。
「フーン」
「おやの」
狸擬きまで、こちらのベッドに飛び乗ってきた。
男の胸に潜り込む我の背に、背中をもさりと押し付けてくる狸擬き。
なんの。
「甘えん坊であるの」
「フゥン」
たまにはいいのですと言うけれど。
朝方は涼しいとは言え。
こうもぴたりと挟まれれば。
若干。
(暑いの……)
朝。
一番に起きるのは、我か狼男のどちらか。
今朝は、狼男の起きる気配に我も目が覚め。
その身動ぎで男が目を覚まし。
「……フン?」
一番の寝坊助は狸擬き。
『顔色が、だいぶ良くなっている様に見える』
狼男がシャツを着替えながら、今は我を膝に乗せて伸びをする男を振り返り、狼男は安堵の表情を見せる。
「そうか?」
「の」
我も頷いてみせれば、男は自身の頬をなぞると、
「あぁ、そうかもしれない」
声も普段通りに思える。
ただ。
「まだ油断は禁物の」
「フーン」
空腹です、と自身の腹具合が何より大事な狸擬き。
それぞれ身支度を済ませ、我は男に抱っこされて食堂へ向かえば。
(おやの)
食堂から見える木々も、剪定がなされている。
宿の主人は。
(大男であったの……)
猟師を思い出す背中。
「ムーン」
「の?」
「ムン」
明日辺り、また小島へ遊びに行きたいのですと口いっぱいにパンを詰め込んでいる狸擬き。
小島であるか。
「フーン」
釣りをしたいのですと。
ふぬぬ。
男に伝えると。
「あぁ、そうしようか」
小島の方には、特に思うところはない様子。
『なら魚だけでなく、肉も焼きたい』
と椅子から流れる尻尾をふわふわと揺らす狼男。
食堂の若い男は、そんな尻尾に触れたそうな視線を送りながら通り過ぎて行く。
朝食を終え、広間へ出ると。
「おはようございます」
本日も暑くなりそうですねとやってきたのは。
受付に立っていることの多い、我と狸擬きに飴玉をくれた初老の男。
今朝は宿の麻の制服ではなく。
私服と思われる、この時期でも長袖のシャツにきちりとしたパンツ姿でやってきた。
軽く会釈をする男に。
「の、この男には飴玉を貰ったの」
伝え忘れていた。
「んんっ?」
男が慌てて、彼女たちが世話になった様でと恐縮しながら礼を伝えれば。
「いえいえ、とんでもございません」
初老の男は、
「素敵なレディでいらっしゃいますが、何分、お連れ様がいらっしゃる身でありますし」
ありますし?
「あの場では飴をお渡しするだけに留めたのですが」
ふぬ。
初老の男は、食堂を振り返り。
「結局、食堂の者たちが、お嬢様たちにちゃっかり甘いものを用意してしまっていまして」
こんなことなら、私自らがレディをお茶に誘うべきでしたと、我に対し茶目っ気たっぷりに笑ってくれる。
男も、そんな気安い返事を投げてくれる初老の男にほっと力を抜くと、
「今日は、お休みなのですか?」
さりげなく視線を上下させ。
「いえ、一応は仕事なのです。本日は街の方へ、お得意様をお迎えに行く予定がありまして」
ほう。
宿の者が送迎とは、相当なお得意様な様子。
「えぇ、えぇ。マダムのご両親なのです」
なんと。
驚く我等に、初老の男は上品に笑うと、
「……あぁ。準備が整ったようなので、行って参ります」
大きな扉の前にやってきた馬車の姿に、我等に一礼してから足早に向かい。
「なんの、マダムは謎が多いの」
「だな」
馬車が軽快に走り出した後。
我等も建物から外へ出て、手と尻尾を振る1人と1匹を見送り。
我と男は、のんきに敷地の散策。
「の、よい香りのであるの」
「あぁ、いい香りだ」
咲き乱れるジャスミンの香りを、男と堪能し。
厩舎まで、我等が脳筋馬の様子を見に向かえば。
馬たちは、何か用か、走るのかとドカドカ駆けてきた。
大袈裟でなく地響きが伝わってくる。
「君たちの様子を見に来ただけだ」
男が答えれば、こちらは問題ない、と言いたげにフゴフゴ鼻を鳴らす馬たちの蹄鉄の消耗具合を、男が確認している。
「の、あれはなんの?」
厩舎の奥に、一軒家に満たない大きさの簡素な建物。
隣接するのは、少し小振りな、こちらも宿を思わせる作りだけれど、マダムや従業員用の部屋と思われる。
「小さい方は物置かな」
この規模の宿になると、物置小屋も小屋とは言い難い立派さ。
狸擬きと散策をした時と同様、ぐるりと敷地を一周し。
今はせっせと食堂の窓を拭いている、少々素性の気になるマダムに声を掛け。
馬たちの馬蹄を替えたい、店を紹介してくれないかと男が頼めば。
「お馬さんたちの装蹄でしたら、こちらで承りますよ」
あっさり仕事を請け負われてしまい。
(ののん)
用のなくなった我等は、顔を見合わせ、
「戻ろうか」
「の」
おとなしく部屋に戻ることにした。
「ぬんぬん」
我はベッドにうつ伏せになり、ベッドでお絵描きに励む。
男は、壁に寄りかかり、煙草を吹かしていたけれど。
「見ての」
「あぁ。……ええと?」
「狸擬きの」
見て分からぬか。
「んっ!?」
なんの。
「あ、あぁいや、とても上手だな」
頭を撫でてくれる。
「んふー♪」
続いて狼男を描いていたけれど。
「……」
身体を横たえれば、我の身体は自身の意思とは関係なく、
(ぬぬ……?)
寝るものだと判断するらしい。
「……」
目が覚めてから、自分が眠っていたことに気づいた。
目を開いた我の目に映るのは、男の、投げ出された足。
男は、上体をベッドの柵に凭せ。
小刻みに肘が揺れ、更に目に留まるのは、写生帳の角。
「……?」
男は。
真剣な顔で、写生帳に何かを描いている。
(なんの)
身体を起こしてにじり寄り、ぐいと写生帳を覗き込めば。
「……おっ?」
初めて気づいたように、ぴたりと筆を止め。
「……の?」
そして珍しく、見られるのを躊躇する様に、写生帳を身体に寄せるような動きを見せたけれど。
我は頭を突っ込んでいるため、もう遅い。
「ぬ?」
ただ。
(……のの)
そこに描かれていたのは。
今はとうに鮫の腹の中での消化も終わり、文字通りの海の藻屑となっているであろう、人魚たちの姿。
(なんと)
黙って男を見上げれば。
男は、我を見下ろしたまま、しばし口ごもり。
「……」
男が口を開くのを待たずに、我は再び絵に視線を向ければ。
(ふぬ……)
男の描くその人魚たちは。
絵でありながらも、眩しさすら感じる笑みを浮かべ、とかく躍動感溢れるものであり。
大輪の花の代わりに光に反射するきらめく波を背負い、魅惑的にこちらを見て微笑んでいる。
身体の華奢さに比べ、深い谷間のある乳房は水面に浮き波に揺蕩い。
水面下には、人魚たちにより意図的に隠された魚の姿。
そんな人魚たちと対面した人間は。
きっと、その抗い切れない好奇心に。
船から乗り出し水面を覗き込めば。
人魚たちは。
その人間を、心から歓迎するように。
艶やかな笑みと共に、細い両手を大きく広げ。
人間たちは。
いとも呆気なく、呑み込まれる。
どこまでも。
底すら見えない、どこかへ。
「……」
男の見ていた、男の瞳に映る人魚たちは、まさにそんな、人を魅了する“化け物”であり。
(これは)
もし。
もしまだ我の血が、男に馴染んでない頃ならば。
男は、少々危なかったのではないか。
それくらい、我が危ぶむ程度には、男の描く人魚たちは、大変に目を惹かれるものであり。
「なんの。今にもここから飛び出してくるか、口を聞きそうな勢いがあるの」
本心の一部である感想を述べれば。
「そうか?」
苦笑いではなく、面映ゆそうな表情を浮かべる男。
その顔にも、身体にも。
今は、男に必要な分の精気が、淀みなく流れているのは分かる。
しかし。
やはり。
「の」
「うん?」
「お主には、あれらがこんな風に見えていたのの?」
優美で、艶やかで、尚愛らしさも見え隠れする淑女たち。
けれど。
我の中の記憶では。
もう、化け物じみた姿しか記憶がない。
確かに一見は。
人の女の身体と思われるものではあったけれど。
どこまでも長い髪は海水に浸され続け、到底見られた様なものではなく。
ふやけきった皮膚に抉れ骨が浮き出た鎖骨。
不自然な膨らみと歪な形を見せていた乳房。
声すら、今は不快な金切り声が脳内で響く。
「……」
記憶の中での再現ですら、軽く眉が寄る程に。
あの人魚たちは。
(……凄まじい幻術使いであったの)
狸擬きには、すでに初めから、あの姿で見えていたのであろうか。
男には、
「……君には、彼女たちがどう見えていたんだ?」
不思議そうに聞かれたけれど。
「さての」
ベッドから飛び降りると、男も付いてきた。
テラスに出ると、遠い水平線を眺める。
「……」
そんな我を、黙って両腕を伸ばして抱き上げてくる我の男は。
今尚。
自身の内に残る、僅かにこびりついた恐怖の残滓を。
我を抱く、その手で描き出す事で。
引き剥がし、一線を引き、俯瞰を試みている。
それは。
己自身との、とかく正しい向き合い方の1つであり。
(なんの)
我が無駄に思い悩む必要などなかった。
我は。
この男を見くびりすぎていた。
我の男は。
我の男だけはあり。
「ふふん♪」
「ん?」
「何でもないの」
(なかなかに強いではないか)
昼を少し過ぎてから。
男と共に食堂へ向かうと。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
後から食堂に入ってきたマダムに同席を求められた。
制服こそ着ているけれど、今日は昼過ぎからほんの半日、休みなのだと。
男と共に喜んでと頷けば、せっかくですからとテラスに誘われた。
この高台は、立地が独特で、他の場所より涼しい風が拭いてくるのだと教えてくれる。
暑くても居心地のいい理由はそれであるか。
男が、ご両親が宿に来られるのですかと訊ねると、
「まぁま、もうお耳に入っていらっしゃるのね」
驚かれた後。
「私もいい年なのに、ちゃんとやっているかと確かめるためだけにわざわざ来るんです」
仕事をほったらかしてまで、とらしくなく大きなため息。
マダムは、少し離れた大きな街の、その街の顔でもあるお屋敷の、箱入り娘であった様子。
「この建物も、元はうちの別荘だったんです」
なんと。
食堂などは、宿にする際に増築したのだと。
ならば、宿の主人はと首を傾げれば。
「ここからもう一つ先の村の、漁師の子だったんです」
まだマダムの幼い頃に、別荘が建てられ。
夏に初めて遊びに来た時に、下の海辺で、今は宿の主人と出会い。
それからは夏になる度に、この土地に訪れれば、お互いに再会を喜びあっていたと。
大事な友人。
少なくともマダムは、そう思っていたけれど。
「私が学舎を卒業する頃に、お婿さんを貰う話になったんです。……でも」
でも。
「私は、それが、とても嫌だと思ってしまって」
そしてマダムは、夏だけに会えるあの漁師の息子を、友人ではなく、異性として、少なからずの好意を持っていることに気付いたと。
「それで」
マダムは小さく笑うと、
「私は彼と人生を共にしたいと、両親宛に置き手紙をして、この土地まで家出したんです」
ののぅ。
なかなかに大胆なことをする。
そして彼の住む村へ向かう前に、思い出の海岸へ立ち寄ったら。
「本当に偶然、主人が、海を眺めていたんです」
彼も、私との思い出を振り返る時に、たまたま海岸へ来ていたのだと聞き。
今もまるで年頃の少女の様に愛らしくはにかむマダムは。
その時は勿論、両親が折れるのを計算しての家出だったわけだけれど。
「まさか、それならあの別荘を宿にするから、2人で生計を立てて食べて行けるようになりなさい、と言われるとは思いませんでした」
マダムの両親は、結婚を反対して駆け落ちなどをされるより、目の届く場所で仕事を与えた方が、まだ娘の手綱を握れると考えたのであろう。
(ぬぬん)
明け方に遠目で見た、宿の主人の大きな背を思い出す。
当時は漁師の息子だった宿の主人も、どうやら当時から可憐であったであろうマダムに好意を抱いていたとは言え。
離れた土地に住む、身分違いの相手が突如現れ。
家出をしてきたから自分を嫁に貰ってくれと迫られた時。
一体、どんな気持ちだったのか。
(くふふ)
一度、訊ねてみたい。
午後は、そのなかなかに大胆かつドラマチックな経験をしていたマダムと一緒に、宿特製のオイルを作るためにジャスミンの花弁を摘むのを手伝った。
客の目に付く建物側ではなく、客の目に届きにくい裏手に咲き誇るジャスミンの花たち。
男は、そんな我とマダムをせっせと写生帳に描いている。
指にジャスミンの香りが移り、スンスンと指の匂いを嗅いでいると、マダムに何か話し掛けられた。
「?」
男曰く、我の纏うワンピースを褒められた様子。
白地に、裾や袖に格子柄の模様の入ったワンピース。
男が、世話になった知人に譲って貰えたものだと、幾何学模様の街の話をすれば。
「まぁま、確か、紅茶が美味しいとか?」
宿の主人だけはあり、さすがに離れた土地の事もよく知っている。
紅茶で、甲冑男の事を思い出した。
あれは淋しがりであるし、我等からの手紙がなかなか届かないことで、しょんぼりと甲冑を軋ませる姿がまんまと想像でき。
(後で送るかの)
まだ距離も近い。
男が何か楽しい話をしているのか、マダムがコロコロと笑い。
しばらく、穏やかな2人の声だけを聞いていたけれど。
「マダムのご両親を迎えに行ったチーフは、当時、街の宿から引き抜かれた方らしいよ」
要所要所、男が教えてくれる。
ほーうほう。
初老の男は、“チーフ”の立場であるのか。
この宿を営むにあたり、離れた街から、村からも人を雇い。
主にあの“チーフ”に、みっちりと、仕事のあれやこれやを仕込まれたとのだと。
(ふぬふぬ)
誰にでも。
「人に歴史あり」
であるの。
夕刻。
我等は部屋にいたけれど、広間から少し賑やかな空気を感じた。
マダムの両親が到着したのかもしれない。
ならば夕食時にでも、両親の姿が見られるかと思ったけれど。
狸擬きと狼男の帰りを待ち、食堂へ向かえば。
「……?」
客席に、それらしい姿は見えず。
「マダムのご両親ですか?あぁ、自分たちは客ではないからと、お2人のお部屋でお食事をされていますよ」
食堂の若い男が教えてくれる。
いつものことらしい。
そんなマダムの両親も多少は気になるけれども。
「の、の」
男に、宿の主人は、一体どんな顔なのかと問うて貰えば。
「えっ?……んんん、そうですね……」
若い男は、うーんと視線を中宙に彷徨わせ。
「そうだなぁ。慣れればどうってことないんですけど……」
慣れれば。
「ちょっと、その、まぁ、怖い、というか……」
ほう?
俄然興味が湧くけれど。
「……っとと、失礼します」
厨房から声が掛かったらしい。
サッと踵を返す若者を見送れば。
『怖い顔……?』
人の顔の造形に関しては、未だいまいち精度の低い狼男。
「フーン?」
主様と書いて怖いと読みますし、単純な怖さで言えば主様に敵うものなどいないと思われますがと、さも不思議そうに首を傾げる狸擬き。
「ほうほう」
こやつが普段から我をどう見ているのかだけはよく解った。
後で覚えているのの、と歯を見せて笑って見せれば。
「フッ!?」
ボワッと膨らむ狸。
「色々な理由があるんだろうな」
と男。
「色々との?」
「あぁ、色々な」
ぬぬん。
要は。
「“デリケート”な事情がある可能性もあるため、下世話な詮索は良くない」
と。
「そうだな」
男が小さく笑いながら我の口許を拭っていると、若い男が、狸擬きの酒を運んできてくれた。




