76粒目
「……ぬ?」
男につられて、我も眠っていた様子。
目を開く我の目に映るのは、仰向けになったまま、自身の片手をじっと見つめる男の横顔。
握ったり開いたり。
(……?)
気付かぬふりをした方がよい気がし、再び目を閉じれば。
次に目が覚めたのは、扉を叩かれる音であり。
男がベッドから降り、扉へ向かう気配。
聞こえてくるのは、マダムの声。
(ぬぬ?)
我も起き上がり、寝室から出てテテテと向かえば、マダムは、我の姿に相好を崩してくれる。
マダムが両手に持つのはグラスの乗った盆。
どうやら「二日酔い」で寝込む男を気遣い、飲み物を運んできてくれた様子。
「レモネードだそうだよ」
「のの♪」
マダムに通じない礼を伝え。
ソファで海を眺めながら、
「美味の♪」
「……あぁ、美味いな」
酸味が心地好く喉に染みる。
男は、煙草に火を灯し。
消耗は、無論見えるけれど。
横顔を見上げれば、少し顔色がよくなっている。
「君に、手を握って貰えたお陰だと思う」
おやの。
では。
「もう少し押してみるのの?」
男に手の平を向け、わきわきさせて見せれば。
男は、
「そうだな」
頼めるか?と静かな笑みを浮かべ。
「よいの」
んしょのと男の膝によじ登り、男の胸に背を預けると。
男の手を、固い手の平を上にして、むにむにと押してやりながら。
(そうの)
「の、手の平の皺で、占いが出来るのの」
「んん?」
男が首を傾げる。
「生命線が長いとか短いとかの」
「せいめいせん?」
「寿命を占う線の」
「……それは、当たるのか?」
大層懐疑的な男。
「ふぬ」
男の手の平を改めて眺めれば。
「……なんの、滅法短いの」
深く刻まれてはいるけれど。
「なら、俺は短命か」
「くふふ、そうの」
足をパタパタさせて笑うと、
「きっとこれから伸びるな」
「の」
よく見れば、短い男の生命線の先を、引っ掻くように細い線が交差し、その線は非常に長く伸びている。
(ふぬ……?)
男の両手を、厚さのある爪先まで念入りに押してやっていると。
再び扉が叩かれる音。
「ぬ?」
今度は男が我を抱えたまま向かえば。
再びのマダム。
盆にはサンドイッチと果物と灰皿。
「俺はともかく、小さな君がお腹を空かせていたら可哀想だからと……」
ののん。
とうに昼を過ぎている様子。
マダムに再びの礼を伝えて吸殻の溜まった灰皿と交換に、盆を受け取りはしたけれど。
「お主は、食べられるのの?」
食べられないことも深刻であれど、それ以上に嘔吐の症状は、心身への負担も少なくない。
盆をテーブルに置いた男を見上げて問えば。
「そうだな……」
せっかく作ってくれたものだしと、男は唇をなぞるように指を当てているため。
「……無理に食べるのも、あまりよくないことの」
無駄な含みを持たせてしまったせいか。
男は片眉を寄せ、黙って我の瞳を見つめてきた。
「……?」
隠さない、むしろ怪訝さを込めた眼差しで。
(ぬぬ……)
「我でなくの」
「……君ではなく?」
「狸擬きが気付いたの。あやつは耳がいいからの、嫌でも聞こえてしまった様子であるの」
白状すれば。
男は、ソファに腰を下ろしてから額を押さえると、
「すまない……」
君たちに、余計な心配を掛けさせていたんだなと、大きな溜め息。
気にすることはないと伝えても、今の男には、到底響かない言葉であり。
代わりに。
「お主は、ほんの少し口を付ければよいの。残りは我が食べてあげるのの」
我に任せるのの、と腰に手を当て胸を張れば。
「そうだな、お願いしようかな」
そう無理矢理でもない、やわこい笑みを浮かべる男。
そして、
いつもより遥かに時間をかけ。
それでも半分程は、サンドイッチを食べた男は。
男の残したサンドイッチにかぶり付きつつ、男を見上げる我を見下ろし。
「?」
「まだ、君の髪を梳かせていなかったな」
我の髪を撫でてくる。
「の」
そうの。
時間を掛けて髪を梳かされてから、男に抱っこされてテラスへ出ると。
昨日の通り雨が若干恋しい夏の日射し。
小島へ、お舟が向かっている。
「のの」
宿の若白髪の男と、客と思われる男女。
ふと。
「の、我等のお家を思い出したの」
湖に浮かぶお屋敷。
「あぁ、そうだな」
男の少し懐かしそうな声。
「熊の村長には、手紙は届いたかの」
「そろそろ届いているんじゃないか」
そういえば。
「狸擬きが、村長宛に桃の種を送れとうるさかったの」
幾何学模様の街で手紙を送ったばかりであったし、そうそう安易に送れるものでも、容易い金額でもないと却下したけれど。
「あれは、君のためだろう」
「ぬ?」
「君が桃が好きだから、屋敷の庭に桃が実れば、君が喜ぶと思ったんじゃないか?」
なんの。
「あれがそんな殊勝な玉とは思えぬけれどの」
陽射しの眩しさに目を細めれば、男も辟易したように我を抱いたまま部屋に戻ると、小さく息を吐き。
「お主は、もう少し横になるのの」
夕刻には、
「食事をする」
という仕事が男には待っている。
「あぁ」
大人しくベッドに横たわる男の隣で、男の写生帳を机代わりにして折り紙を折っていると。
「フーン?」
部屋のテラスから狸擬きが戻ってきた。
「なんの、お仕事はもう終わりのの?」
「フゥン」
狼男に様子を見てきて欲しいと頼まれたのですと狸擬き。
大方、役に立たず厄介払いをされたのであろう。
「フンフンッ」
そんな事はありませんと憤慨狸。
心を読まれた。
「男は寝ているからの、静かにするのの」
ベッドに散らばる小舟や魚の折り紙に気付き、小さな目をキラキラさせた狸擬きは。
「フーン」
しかしベッドから降りる我に、男の様子はいかがですかと居間の方へ向かう。
「どうであろうの」
人間は我等と違い繊細である。
「フンフン」
「の?」
「フーン」
わたくしめは草舟を作って海で遊びたいですと、男のことなど、とうにどうでもよさげな我が従獣。
「波でひっくり返って終わりそうの」
「フンフン」
主様のお力を込めれば大丈夫ですと、主である我の力を安く使おうとする従獣。
「草舟に出来るような葉があるかの」
村の方はどうかと訊ねれば。
「フーン」
お祭りのように大変に賑わっておりますと。
「夏は一番の儲け時であるからの」
鞄から櫛を取り出し、背中の多毛を梳いてやれば。
「フーン♪」
ご機嫌になる狸擬きは。
「フン」
ですのでそろそろ戻りますと。
おやの。
「フンフン」
これでも忙しい身なのですとも。
一体、村で何をしているのか。
「フーンフン」
帰ったらわたくしめも折り紙で遊びたいですとテラスから出て行く狸擬きを見送り。
寝室へ戻れば、
「のの」
寝返りを打った男の側に、折り紙が転がっている。
折り紙を拾い、ベッド脇の小さな棚に飾り。
眠る男の髪に触れ、額に触れ。
「すまぬの……」
考えなしの主のせいで。
「……」
あの時。
もっと。
いくらでもやりようはあったはずなのに。
短絡的に事を、あの場を収めようとしてしまった。
主がこんな体たらくであるのだから。
唯一の従獣が“あんなの”でも仕方あるまい。
狸擬き以外、我に付くものが現れぬのも納得である。
(溜め息すら出ぬの)
出るのは乾いた笑いだけ。
そして自嘲などしても、何も変わりはせず。
ならば。
我は。
あの時。
(どうするのが最善であったかの)
そっと膝を整え、その場に座り直せば、目を閉じ。
海に浮かぶ小舟から、人魚と対峙したあの時の情景を思い浮かべた。
ーーー
夕陽が落ちる頃。
狼男と狸擬きが戻れば、男も目を覚まし。
『調子はどうだ?』
「フーン?」
男がそれに答える前に、1人と1匹の腹が仲良く鳴り。
「食事へ行こうか」
小さく笑う男は、我を抱き上げ。
「お身体の方の具合はいかがです?」
食堂では、マダムが出迎えてくれた。
「えぇ、もう大丈夫です」
マダムは、男が不自然な程に酒を飲んだ理由は聞かないし、それに付いての気掛かりな素振りは見せず。
(ぬぬん)
客に対しての踏み込むべき部分とそうでない部分の見極めが玄人のそれである。
今日も美味しい前菜の後に出された、姿焼きではなく切り身の魚の姿に、男はあからさまに安堵の横顔を見せ。
それでも。
フォークを取る手は、どうにも積極的でないため。
「の」
切り分けた魚を、フォークで突き刺し男の口許へ運べば。
「んっ?」
軽く椅子から跳ねる男。
「の」
なんの今更と、ぐいと口許へ寄せても。
「い、いや……」
男は、周囲を見回し。
魚への躊躇より、人目が気になる様子。
それでも、周囲からはあまり気にされていないと知り。
残るは狸擬きと狼男の視線。
男はまたしてもぐっと詰まったけれど。
「の」
我の手が引かぬと気付けば。
「……あ、あぁ」
目を伏せながら、我のフォークから魚を口に含んだ。
「どうの?」
そして躊躇いがちに咀嚼する男は、
「んん」
けれど、すぐに小さな笑みを浮かべ、
「美味い」
と。
その笑みは、決して作りものではないため。
「なら、もう一口の」
口に運んでやっていると、
『今日の君は、お姉さんだな』
狼男。
「そうの」
ふふんと本日二度目の胸を張れば、
「まぁま、とっても仲良しさんで羨ましい」
マダムが、狸擬きのための酒を運んできた。
「フーン♪」
「村の方で、色々とお仕事をしてくれていると聞きました」
狸擬きの話は、マダムにも伝わっているらしい。
確かに物珍しい獣が1匹、村をうろちょろしていれば、嫌でも悪目立ちはするであろう。
『そうだ。明日も、出来れば彼と共に、村の方に来て欲しいと頼まれたのだけれど……?』
狼男が気遣う視線を、男と我に向けてくる。
「あぁ、構わない」
君たちばかり働かせているなと男が肩を竦め。
『いや。キミたちには世話になりっぱなしだから、出来る限りの役に立ちたい』
健気に張り切る狼男と。
「フンフン」
感謝しろと口の減らぬ狸。
穏やかな空気の夕食後は。
風呂場で、男が嘔吐することもなく。
ただ。
時は丑三つ時辺りか。
男が少しばかり魘される気配。
(ぬぬ)
「の」
男の寝間着を引き。
「……?」
「の、我を見るのの」
乱れた息を吐いて、こちらに身体ごと向ける男の瞳を、我は闇の中で見つめ返し。
「……」
「お主の中に巣喰う愚かな恐れなど、遥かに上回るこの我が、今もお主の隣にいるのの」
少し熱を持つ男の頬を撫でれば。
男は。
暗闇の中、我をじっと見つめ。
「あぁ……」
身を縮めるように、我をその胸にきつく抱き寄せ。
「そうだな……」
そうだったなと、譫言の様に呟き。
髪に埋めるように鼻先を唇を寄せられる。
「君は……」
我は。
「……」
言葉を待てど。
男はそのまま。
何も言わず、再び深い眠りに落ちた。
(……ぬぬ)
男は、何を言いかけたのか。
「フーン……?」
隣のベッドから頭をもたげ、こちらの様子を窺っていた狸擬きが小さく鼻を鳴らし。
「の、平気の」
男の胸の中から答えれば、
「フゥン」
狸擬きは欠伸をして再び眠りに就き。
我も、男の胸に額を押し付け目を閉じれば。
どうしてか。
久々に、元いた土地の夢を見た。




