74粒目
我ながら抑揚のない、その声は。
海風が一瞬で水平線の彼方まで、揺れ続ける水は、我の声を海底まで運んでくれる。
そう。
我は無駄に声を上げる必要もなく。
「我は今、この海域に生きる人魚たちに、我の、唯一無二の従者を寄越せと強請られている状況にいる」
「ちょっと……!!」
人魚たちが身体を強張らせ、胸に抱えた人間の落とし物が、海に沈んでいく。
「であれば、我のすることは1つ」
単純な話。
「我は、我等の乗るお舟をひっくり返される前に」
否。
「ひっくり返されても、この海に、我の血を少しばかり流すの」
『……』
『……』
『……』
「この我の声が言葉が届くものであれば、それが例え雨粒1滴に満たぬとしても、その1滴が、やがてどんな惨事を生み出すか。自身の居場所を奪われるだけでなく、命の消滅の危機、子孫を残すことも不可能になると感じるはずである」
人魚たちへの憤りで身体を一回り大きくしていた狸擬きは。
今は、とうに我の隣から離れ、我の横顔を強く見つめてくる男の脇で小さくなって縮こまってる。
今の我は、何の枷も外していないのだけれど。
「その原因を作り出したのは、今、ここで我と対峙するこの人魚たちのしでかした愚かな行いによるものであり」
「ちょっと、……やめて、やめてよっ!」
「やめなさいよっ」
「黙れ!黙れ!」
わりと化け物じみた顔になった人魚たちが声を上げるも。
「我に血を垂れさせるか、この愚物極まりない人魚共を屠るかは」
お主等次第。
「よってお主等には、ほんの数刻の猶予を与える。どうするかは、御主等で決めるがよいの」
我が口を閉じれば、人魚たちは、辺りを見回し。
「……」
「……」
「……」
ただ、波に揺られるだけで、動かないところを見ると。
「……おやの」
(海の生き物たちは、大変に賢いの)
すでに。
すでに、こやつらには逃げ場などはない様子。
なんなら、我と言う異物が海に揺蕩っていた時から。
もしくは、この地に辿り着いた時から。
人魚たちだけでなく、海に生きるものたちも、我等をうっすらと窺っていたのかもしれない。
それくらい。
「…… ぁ……ぁ……」
(ふぬん)
きっと、そうなのであろうと推測が確信に変わるのは。
海の“彼等”に与えた、ほんの数刻すら待たずとも。
「おやの、早いの」
スイスイと、何かが。
数匹、ではなく数頭。
こちらに向かって泳いできたからであり。
影からして、鮫に近い生き物であろうか。
いつからなのかは解らぬけれど。
このとことん阿呆で強欲人魚たちの仕舞いは、とうに決められていた。
今も、蒼白を越え灰色になった震える唇で、言葉すら放てずにいる人魚たちの元へ。
その影から察するに、1頭1頭は我等の乗るお舟よりも小さいけれど。
人魚程度ならば、余裕で喰えるであろう。
「……どうして……」
一瞬でここまで老けるかと驚く程に萎びたような姿になった人魚たちは、
「もう、こんな事はしないから」
「……お願い……お願い……反省もするから……」
「……嫌よ……まだ……こんなところで……」
終わりを迎えたくない、と震える声を出せど。
(あぁ……)
そうの。
人魚でも言葉が通じない鮫と思わしきものたちに、一方的でも言葉が通じる我は。
半人半魚などより遥かに。
側こそ人間ぶってみても、より原始の獣の存在に近いらしい。
「……ッ!」
そして、我の目の前で一瞬の隙を付くように。
勢いよく飛ぶように逃げた、半身は地でしか生きられぬ人の形をした、歪つかつ滑稽な人魚より。
海に生まれ海で生きるために、遥か昔から命を繋ぎこの海にその身を適応させてきた鮫の方が、比べるまでもなく。
小舟のすぐ先で、鮫たちは競うように奇妙な餌に噛み付き。
最期まで、悲鳴は人間の女そのものであった人魚達のいた辺りには、ぶわりと溢れるように大量の赤い液体が滲む。
ただ、鮫たちも口腔に纏わりつく長い髪だけは嫌うか、あれだけ輝いていた金色の髪が、今は血の海にバラバラとほどけている。
「ふぬ」
(しかし随分と静かに食すのの)
もっとガツガツと豪快にいくかと思いきや。
まるで味わうように、静かに咀嚼し。
『……』
餌を喰い尽くせば、鮫たちはやはり言葉もなく。
『……』
こちらを気にもせず、またスイスイと泳いでいった。
その後ろ姿は、とかく満足そうに。
スイスイ、スイスイと。
我等のことなど。
端から、どうでも良さげに。
実際、どうでもよいのであろう。
大量に漂っていた血と僅かな金色の髪と、辺りに仄かにあった緊張も徐々に解れ。
我等を乗せた小舟は、ただ揺れ続ける。
男を振り返り、
「すまぬの」
硬い表情の男に謝罪をすれば。
「なぜ、君が謝る」
男は、我に両腕を伸ばしてきた。
「化け物の裏の顔を見抜けなかったの」
たまに情を見せればこれである。
手を伸ばして男の膝に乗せられ抱かれれば。
男には、
「……いや、よかった」
らしくなく震えている腕で。
とかく強く、その胸に抱き締められた。
(ぬぬ……)
しばらく抱かれ。
狼男が心配しているやもしれぬと促し、男の膝に乗せられたまま、小さな島へ戻ると。
『今日は大きいのが釣れた』
と、男が投げた綱を難なく片手で掴み、引いて繋いでくれる狼男。
しかし話を聞けば。
『釣りをしている時に、全身に鳥肌と言うものが立った』
と我を見下ろし。
『それ以来さっぱり釣れていない』
とも。
ただ、その原因が我だと野性の勘で察し、恐怖はなかったとも。
なんと。
順応性が高い。
それでも。
「釣れなくなったのは人魚たちのせいの」
我のせいではない。
それに、すでに狼男の釣っていた大きな魚たちだけで、我等の昼食分は充分に賄える。
「フンフン」
主様、おにぎりのご用意をと従獣に急かされ。
網で、フライパンで魚を焼き。
「あーむぬ」
「フーン♪」
「美味い」
小島での、我等の楽しい秘密基地ごっこは続く。
はずであり。
ただ。
「俺は、おにぎりだけ貰おう」
男だけは。
若干、慣れぬ刺激があったらしく、捌いた魚は焼くだけ焼いて自身では口にせず。
それでもおにぎりだけは食しているため、
「残りのおにぎりは、お主が食べるのの」
「あぁ、貰おう」
「……フン」
狸擬きも渋々譲っている。
今日はもう魚も釣れそうにないし、空すらも空気を読んだか。
『雨が降りそうだな』
早々と小島から退散すれば、宿からは、こちらのお舟の様子をまめに確認しているのか、桟橋に着く頃には、宿からの馬車が迎えに来てくれる。
「珍しく、お早いですね」
「雨が降りそうなので」
男が答えれば。
「この時期の雨は珍しいですよ」
徐々に厚い雲が覆う空を見上げる宿の若白髪の男は。
「おおっと、そうでした」
そのまま視線を狼男に向けると、
『?』
「もし早く戻れば、少し仕事を請け負ってくれないかと村の方から言伝てを頼まれていました」
若白髪からの伝言に。
『あぁ、ならば、俺はこのまま村へ向かおう』
のの。
「忙しないの」
『夕食前には戻る』
狼男は飛ぶように駆けて行き。
「まぁま、お帰りなさい、今日も楽しめましたか?」
宿に戻ればマダムが出迎えてくれつつも。
珍しく一雨来そうなために、宿の者たちがこぞって、テラスなどに張っている日除けの布を外していたけれど、ちょうど客がやってくる時間のため、少し忙しそうでもあり。
邪魔をしてはならぬのと我等は早々と部屋へ戻り、
「ぬふん♪」
風呂に浸かる。
狸擬きは、
「フーン」
狼男が帰ったら風呂を共にしますと、好きでないことは少しでも先延ばし狸。
男は我の髪を乾かしてから浴室へ消え。
我は狸擬きとテラスに出ると、今はくすんだ色をした海を眺める。
「の、海に変化はあるのの?」
問うてみれば。
『何も』
おやの。
口を開いた。
『凪に御座います』
凪であるか。
「海は強いの」
『主様もお強き御座います』
ふぬ。
「けれど、とんだ失態をかましたの」
強いだけでは駄目なのである。
『あれは仕方ありません』
と慰めてくれる我が従獣。
「そうかの」
『あの人魚たちは自身の欲のために嘘を吐きますし、そもそも騙している自覚すら希薄ですから、あれを見抜くのは到底不可能かと思われます』
と。
(ふぬ?)
少し前に、あの人魚たちた似た様な人間に遭遇した気がする。
「あれの。あの見た目は天使であった、医者である父親を持つ、モルモット娘と同じ類いであるか」
良心の持ち合わせが、そもそも良心と呼ばれるものが欠落していた娘。
『いいえ。あの人魚たちは、海に落ちた装飾品と、この人間の男の価値が同等、なんなら落とし物が上であると信じて疑わなかった様子』
「のーぅ」
やはり人間の存在は、小魚や海藻よりも下であるか。
『海中での暮らしならば、常識も端から違い、それも仕方ないことかと』
異文化、価値観の違いであるの。
では。
「の」
『何で御座いましょう』
人魚たちは、全て鮫と思われる海獣たちに食わせてしまったけれど。
「人間があやつ等の肉を食えば、人は少しは長生き出来るのかの?」
どうにかして持ち帰れば、高く売れたのであろうか。
『どうでしょう。あの程度のお粗末な肉を食べた位での長生きは、到底不可能かと思われます』
首を大きく捻り。
「なんの」
そうであるか。
むしろ人魚たちが、我の男を欲しがるくらいであるしの。
曇り空の下。
遠くに鯨の潮吹きも見えたけれど、男が、狼男がいなければ、それについて、何を口にするわけでもなく。
それよりも。
「の」
『何で御座いましょう』
「我の男は、人外には美味しそうに見えるのの?」
三たび、いや四たび目の問いに。
『それに関しましては、相手によりけりかと』
断言は避けられた。
ぬぬん。
(そうの)
だからこそ。
少々、油断が出来なくなってきた。
狸擬きは、こちらを見ない癖に、我の微かに寄せた眉に気付いたか。
『主様がお守り続ければ良いだけのお話で御座います』
ふぬぬ。
「それが、主である我の役目であるしの」
『……』
従獣がもさりと寄り添ってきたため、少ししんなりした背中を撫でてやっていると。
「……フン」
不意に耳をピンピン跳ねさせた狸擬きが、ちらとこちらを向く。
「の?」
「フゥン」
男が浴室で、食べたものを戻している気配ですと、すでに口は閉じられ。
「なんと」
船酔いかの、などと惚けるつもりはなく。
(ぬぬん……)
それでも気付かぬふりをするべきであろうと、テラスにいると。
「お待たせ」
そう待たずして、少しばかり覇気のない声の男に、部屋から声を掛けられた。
「の」
気丈に笑みを浮かべる男を振り返れば、重い曇り空から、大粒な水滴が落ちてきた。




