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デウステラ  作者: 十座四季
第一章
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第一章 7


 ・同時刻・

 ――クラトス帝国、ヴァジスタ領

 その領主の住む、城壁都市ミリス

 

 この都市は巨大な円形の城壁に守られ、

 内側には家、学舎、店、教会などが密集し、石畳の道が放射状に領主の城へと収束している。


 賑やかな様子の街の中央にそびえるその城の周囲には水を湛えた堀と広場があり、そこから川が街を貫いて流れていた。

円と直線で組まれた道は、街のすべてを城へ導く。城壁の外には森と農地が広がり、この街が城を中心に生きている。


 そんな都市にある魔法学校、その一角に建つ学舎。

 学寮の一室で、一人の少女が机に向かっていた。


「光よ(アモール)」


 少女は小さく詠唱を唱え、指先に魔力を灯す。

 淡い青光が空中に浮かび、やがてランプへと移ると、部屋はやわらかな明かりに包まれた。

 静かな室内で、少女は書物に目を落とし、熱心に勉強を続けている。

 紙をめくる音だけが、穏やかに響いていた。


 そのとき――コン、コン。

 木の扉を叩く音がした。


「どうぞ」


 少女が顔を上げて答えると、扉が静かに開いた。

 そこから、もう一人の少女が部屋の中へと入ってきた。


「……リリスちゃん、ごめんねこんな遅くに」


 扉の向こうから現れた少女は、どこか申し訳なさそうに肩をすくめながら部屋へ入ってきた。

 左右で白と黒に分かれた、珍しい髪色。月光と影をそのまま映したような、不思議な色合いの少女。


 部屋にいた少女は、その姿を見てふっと表情を和らげる。言葉を交わさずとも、互いの存在だけで通じ合う。

 二人は、ここで出会い、支え合ってきた唯一無二の親友だった。


「マリアちゃん、全然いいよ。

 どうしたの?こんな遅くに」


 静かな学寮の一室に、

 信頼と安らぎだけが、そっと満ちていた。


「ねぇ、リリスちゃん。

 私たち、何があっても……親友だよね?」


「……うん。ど、どうしたの?ちょっとなんか変だよ」


 マリアという少女の表情には、どこか拭いきれない不安が滲んでいた。

 親友である彼女には、それが一目で分かるほどだった。 

 視線は落ち着かず、唇も強張ったまま。不安な表情はしばらく消えず、部屋の空気に重く残る。


 やがて少女は、まるでそれを振り払うかのように、

 無理やり口元を緩め、微笑んだ表情で、静かに口を開いた。


「私ね……今日の夜中、この国から出ようと思う」


「え……」


 無理やり作った笑顔から口にされた言葉は、あまりにも予想外だった。


 一瞬、彼女の思考が止まる。

 理解が追いつかず、ただその言葉だけが頭の中に残っていた。


「えっと……どういう事?旅行?」


「ううん。旅行じゃないし、帰っても来ない。

 家族みんなで別の国に亡命しに行くんだ」


 亡命するために、他国へ行く……

 それはこのクラトス帝国において、紛れもない重罪だった。


「え……本気……なの?」


「うん。だってこの国おかしいもん」


 目の前にいる親友は、それを本気で実行しようとしている。その事実を聞いた瞬間、彼女は思わず息を呑み、

 次の瞬間には、迷うことなく反対の言葉を口にしていた。

 それほどまでに、受け入れがたい話だった。


「だ、だめだよマリアちゃん!そんなの、もし見つかったら何されるかわかんないよ!

 ここから出られたとしても途中の警備に引っかかるかもしれないし、ましてや他の国が受け入れてくれるかどうか……」


「わかってるよそんなの……。

 でも、私もパパもママも、妹を殺したこの国で生きてくことなんてできないよ……」


 その言葉を聞いた瞬間、彼女は何も言えなくなった。

 ……それもそうだ、と。

 出国は否定したはずなのに、心のどこかで理解してしまったからだった。


「アースヴァロンかエスロエスに行こうと思うの、

 滝那の国も良かったんだけど、1番遠いし……。

 ここよりは法律がまともだそうだから」


「……行かないで」


 親友の覚悟を理解しながらも、彼女の口からは思わず本音がこぼれた。


「……ごめんね、こんなにギリギリになっちゃって。

 でも、考えを変えるつもりはないの。

 もうこんな国で生きていけない。

 

 妹がさ、領主がメイドになるための教育をしたいからって城へ連れて行かれたって話したよね」


「うん……それで妹さんは……排水路で……」


「そう、城の排水路で裸のまま死んじゃってた……。

 城の衛兵や医者からは事故だの自殺だの言われだけど、無理があるでしょ……」


 妹が悲惨な最期を迎えたという話は、リリス自身も、

 以前から耳にしていた。

 だがその理由は、確かめることはできずにいた。


「パパが聖職者だから、祈祷で妹の遺骨から死んじゃう前の記憶を見たの」


「……どう……だった?」


「口にするのも辛いよ……!2日ほどしか記憶を見られなかったけど、メイドの仕事をしに行ったはずの妹が、檻に閉じ込められて!毎日毎日いろんな男の人に群がられ、

 尊厳を踏みにじられていたの!


 それで抵抗して領主に頭を殴られてた……。

 妹は動けずにいてそのまま排水路に捨て置かれたの!

 ゴミみたいに……!

 その時まだ妹は生きてたの!まだ治療すれば生きれたかもしれないのに、寒すぎる排水路の中で一人で死んでいったんだよ……」


 あまりにも酷すぎた。

 真実を初めて聞かされた彼女は、思わず自分の耳を疑いたくなる。理解が追いつかず、困惑だけが胸に広がった。

 マリアの無理に作っていた笑顔は崩れ落ち、その顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。


 膝をついて泣き崩れてしまった親友に、かける言葉が見つからない。


「最初はパパもママも妹も私も喜んでた……。

 妹がメイドに選ばれたって。でもこんなことに……。

 王都にもこのことを伝えたんだけど……まるで聞いてもらえなかった。領土で起きたことは領主に任せるって。

 ……その領主が大切な妹を殺したのに!!」


「マリアちゃん……」


 気づけば、彼女もまた涙を流していた。

 あまりにも辛い現実に、言葉を失い、ただ同情の念だけが胸を満たす。

 逃げ場のない想いに耐えきれず、

 彼女は一歩踏み出した。

 何も言わないまま歩み寄り、

 親友の心を確かめるように、強く抱き締めた。


「マリアちゃん……マリアちゃん……!」


「っ、別の国で、リリスちゃんと会いたかったな……。

 ごめん、言おうか言わないか迷ったの……。

 でもやっぱり言わずにはいられたかった。

 もう一生会えないと思うから、最後に会いたくて……」


「……嫌……離れるなんて嫌だよ」


「ごめんね……離れても一生親友でいて……、お願い」


 そう言いながら彼女は、自分にとって大切なはずのブレスレットを外し、親友の腕にそっとはめた。


「これあげる……大切にしてね」


 ブレスレットをはめると、マリアはそのまま親友の手を握った。伝わってくる互いの手の温もりが、かえって二人の涙を誘う。

 親友もまた、何かを思い出したように戸棚に手を伸ばし、ブレスレットの代わりに、花の形をした小さなブローチを取り出した。


「私も、これあげる。

 いつかまた会えた時、これを見せ合おう……」


 それを彼女の手にそっと渡し、

 二人は何も言わず、ただ強く手を握り合っていた。


「ごめんね、リリスちゃん。

 もうそろそろ行かないと……」


「あ、」


 寂しさを滲ませながらも、彼女は確かにその手を離した。名残を断ち切るように扉へと歩き、そっと取っ手に手をかける。

 そして一度だけ振り返り、

 涙を隠すように、けれど確かな笑顔で別れを告げる。


「さようなら、リリスちゃん。

 また会いたいな……大好き」


 それに対して、彼女は何も言えなかった。

 言葉は喉の奥で詰まり、ただ見送ることしかできない。

静かに扉が閉まり、その音とともに、すべてが終わった。


 次の瞬間、彼女はその場に崩れ落ちた。

 立ち上がることもできず、ただ泣き崩れる。


「うぅっ……、私も大好きだよ、マリアちゃん…!

 ……やっぱり別れたくないよ……、戻ってきてよ…

 マリアちゃぁぁぁん!!」


 嗚咽はやがて声になり、

 静まり返った部屋の中に、彼女の泣き声だけが溶け込んでいた。


 彼女は静かに城を後にした。

 やがて向かう先、父と母が待つ待ち合わせの場所に着いた。


「友達との別れは済んだのか…?」


「うん。もういいよ」


「うぅ!マリア……」


 待ち合わせの場所には、父が馬車を引いて立っていた。

 その姿を見つけた瞬間、母は駆け寄り、マリアを抱きしめるように強く抱擁する。

 言葉は多く交わされなかった。

 それでも、無事を確かめ合うには十分だった。


 やがて三人は馬車に乗り込み、夜道へと出発する。

 静かな蹄の音を響かせながら進み、やがて城壁に設けられた小さな門の前へと辿り着いた。


「きたか」


「すまない。危険な役を受けてもらって」


「……これで恩は返したからな」


 小門の前には、父の協力者である衛兵が待っていた。

 短く言葉を交わすと、衛兵は周囲を確かめ、小門を静かに開く。


「ここから先、ずっと西に向かえばアースヴァロンの国門へと着く。大体2日ほどだ。

 門壁の上に兵士がいるだろうから、必ず白旗をあげて、敵対の意思がないことを示せ」


「あぁ、わかった。

 何から何まで感謝する。」


「……今日は昨日の戦いのせいで東方面の警備強化があるから、こちらは警備がないはずだ。

 だが、気をつけるんだぞ……森へは絶対入るな。

 夜は魔物も活発になるからな」


「……さらばだ、感謝する」


「早くいけ、衛兵が来るぞ」


 そして彼らは小門を通り抜けた。

 協力者の男は、その背を見送ると、静かに扉を閉めた。


「……」


 するとそのとき、横合いから一人の衛兵らしき人物が近づいてきた。


「どうだ?」


「あぁ、あとはあんたらが出国を確認するだけだ」


「わかった。

 これは通告報酬だ、受け取れ」


 ――すまない……。俺も自分の身が大事なんだ。

 でもあんたらが悪いからな。

 この国では他国への亡命が重罪と知っておきながら……


 小門を抜けてから、彼らは30分ほど進んだ。

 西に向かって平たい夜道を淡々と進み、馬車の軋む音と蹄の音だけが静かに響く。


 やがて緊張が少し緩み、

 着いた先で何をするのか、これからどう動くのか……


「国門に着いて、国内に入れてもらえたら……とりあえず街に向かおう。そこでしばらく泊まる宿を探して、

 仕事や学校、家の段取りを進めようか」


「そうね、マリア……向こうの国でも友達ができるわよ。

 他国から来たっていうのは、言わない方がいいけれど……」

 

 そんな話を交わし始める。


 ようやく城の外へ出られた。

 その事実に、三人は確かな安堵を覚えていた。


 だが、その矢先だった。

 前方の闇の中に、

 四騎の武装した騎馬隊の影が浮かび上がった。


「な、なんだ?

 この先には警備はいないと……」


「そこの馬車、止まれぇ!」


 前に出た騎兵が馬車の前へ回り込み、進路を塞ぐようにして止めた。


「ここから先は一般市民は立ち入り禁止区域である。

 今すぐ引き返せ」


 槍と鎧で武装した兵士の鋭い視線を向けられ、すぐに引き返すよう迫られる。


「あ……あぁ!申し訳ございません。

 すぐに戻ります」


 思わぬ質問だった。

 出国を疑われるものだと身構えていたため、張りつめていた緊張がふっと緩む。

 気づけば、背中に滲んでいた冷や汗も引いていた。


 ――クソ!どういうことだ?

 いや、今は考えるよりも、自然に引き返す方が先決か


「待て」


 彼はそのまま引き返そうとしたそのとき、もう一人の騎兵に呼び止められる。


「冒険者でも、商人でもなさそうだな。

 一応身分証明と、何故ここにいるか聞きたい」


「…………っ!」


「さぁ、早く見せるんだ」


 彼は、身分証である印板を見せようとしなかった。

 それを出せば、住んでいる城が知られてしまう。

 当然、出城を許可する証明など持っていない。


 そのうえ、この大きな荷物だ。

 これでは……国からの脱出を疑われるのは、ほぼ確実だった。


「そう言えば……つい先ほど最寄りの城から馬車が無許可で壁を超えたとの通告があったのだが……」


  確実に、疑われていた。

 騎兵は一歩踏み込み、俯いた彼の顔を覗き込む。

「よもやお主たちではあるまいな!?」


 滝のような冷や汗を流す彼は思わず視線を逸らし、後ろを振り返った。

 そこには、怯えた表情でこちらを見つめる妻と娘の姿がある。


 その涙に濡れた不安そうな顔を見た瞬間、

 もう誤魔化しは利かないと、彼は確信した。


 ここで終わりだ

 そう覚悟を決め、彼は大胆な行動に出た。


「――――っ!」


 ヒィィィイイン!!!


  次の瞬間、彼は突如として手綱を強く引き、馬車を全速力で走らせた。


「なっ!追え!追え!」


「やはり密出国か、報告通りだ!重罪人を捕えろ!」


 突然の加速に、娘と妻は困惑した表情を浮かべる。


「あなた!一体なにを!?」

「パパ…………」

 

 彼は焦りに駆られ、「しっかり捕まっていろ!」と

 それだけを叫んだ。

 冷静さを失い、状況を判断する余裕は、もはや残っていなかった。


 馬車を追って、騎兵たちも全速力で駆け出した。

 騎馬はすぐに距離を詰め、あっという間に馬車の横へと並ぶ。

 当然、逃げ切れるはずもなかった。


「重罪人どもが!さっさと止まれ!」


 左右に並んだ騎馬が、同時に距離を詰めた。

 二人の騎兵は、回転する馬車の車輪へ鉄の槍を突き入れる。


 次の瞬間、木の車輪は耐えきれず砕け散った。

 馬車は大きく跳ね上がり、馬と乗っていた三人の体が宙へと放り出される。

 何が起きたのか、理解する暇すらない。国の精鋭から逃げ切れるはずなど、最初からなかったのだ。

 そして三人は、そのまま地面へと叩きつけられた。


 ――痛い、痛い痛い痛い!


「パパ……ママ……」


 マリアは、地面に叩きつけられる際、腕を潰すようにして落ちていた。

 鈍い痛みが走り、その腕はすでに折れていると分かる。

 激痛に耐えながら、マリアは残った片腕で必死に地面を這った。

 視界に入った、最も近くに倒れている母のもとへ向かうために。


「……ママ……?」


 呼びかけても、返事はない。

 服の裾を掴み、何度も引いて呼び止めるが、母はまったく反応を示さなかった。


 マリアは知らなかった。

 母が頭から地面に落ち、その時点で息絶えていたことを

 まだ、理解できずにいたのだ。


「ママ……ママぁ!!」


「うう、マリア……ルイス……」


「さっさと止まれば、こうならず済んだものを」


「あーあ、母親の方、こりゃ死んでいるな

 頭から落ちて首がイカれてる」


 騎兵の一人が近づき、鉄の槍で母の体を無造作に突いて、生死を雑に確かめた。

 その冷酷な所作を目の当たりにし、マリアも、父も……決して許すことはできなかった。


「触るな……。

 妻に触るなぁァァ!」


 父が怒号を上げた。

 その声に逆上した兵士が歩み寄り、「罪人ごときが言葉を吐くな」と吐き捨てる。

 次の瞬間、父の顔は無慈悲に踏みつけられた。


「ふん、お前たちはどうせ城に連れ帰って公開処刑だ。

 法に背いた罰をせいぜい受けるといい」


 ほとんど動けないマリアは、

 その光景を、ただ見ていることしかできなかった。


「しかし娘の方、コイツァもったいないな。

 まだ15そこらだろうに。連れて行く前に一発やってかないか?」


「それはいい考えだな。おい罪人、よく見ていろ。

 貴様の愚行のせいで、婚約もしていない男に汚される娘をしっかりと目に焼き付けるがいい」


 一人の兵が父の体を地面に押さえつけ、乱暴に髪を掴み上げた。

 そして無理やり顔を上げさせ、別の兵たちに囲まれた娘のほうへ視線を向けさせる。

 何をされようとしているのか……娘は察した。


「いや……!助けて、パパぁ!」

 

 その瞬間、親子にとってそこは地獄そのものだった。


 父は、決して許すことなどできない。

 だが必死に振り払おうとしても、訓練され尽くした衛兵たちに抗えるはずもなかった。

 そうしている間に、

 娘の服は無理やり引き裂かれていく。


 妻はすでに死に、娘は汚されようとしている。


 その現実を、父は到底許すことはできない。

 絶望と怒りを胸に、父は……渾身の力を込めた。

 娘の悲痛な叫びが、耳を鋭く打った。

 深くうなだれ、ただ静かに祈りを捧げた。


 ――すまない、すまない……!

 偉大なる"ゴッドルー"よ……最後に……どうか私めに力を……!


 次の瞬間、娘の乱れた衣服に気を取られていた衛兵の腕を、父は力いっぱい振り払った。

 一瞬、拘束が緩む。

 その隙を逃さず、父は一気に駆け出し、束縛から抜け出す。

 全速力で、娘のもとへ。

 二人の兵に囲まれ、今にも交わりそうな娘と男。


 父は覆いかぶさろうとした兵を蹴り飛ばし、

 そのまま娘を守るように、強く覆い被さった。


「パ……パパ……」


 ――もう魔力を惜しまない!せめて、この子だけはなんとしても……!!


 その瞬間、父は残されたすべての魔力を、余すことなく総動員した。


 ――まずは周りの兵を吹き飛ばす!!


「ある神の怒りをその身に宿し、形として顕さん。

 放たれし憤怒は、鎚よりも重く、敵を打ち伏せ、

 その足を縛らん。

 其はゴッドドゥーン。永遠不滅の及ばぬ高み・・・

 ――"ドゥーンの咆哮"」


 かつて神話の大戦を鎮めた大英雄であり悪神、

 戦帝ゴッドドゥーンの名を冠する、怒りの祈祷。


 それが放たれた瞬間、父を貫こうとした槍は弾き返され、同時に周囲の兵を押しのけるように、父から光が溢れ出した。

 次の刹那、

 眩い光とともに、大きな円形の衝撃波が父の周囲から走り抜ける。


「なっ!あぁ!」


  兵たちは大きく吹き飛ばされた。

 困惑しながらも起き上がろうとするが、すぐには体を動かせない。

 この祈祷は、ただ相手を押しのけるだけではない。

 放った者の強烈な怒りを叩きつけ、敵の心と体、その歩みそのものを阻む力を持つ。


 発動には、並外れた怒りが必要とされる。

 だが今の父には、それを満たすに余りある怒りが、確かにあった。


 ――今のうちに!


「傷負いし魂よ、黄金の恩寵を仰ぎ、その溢るる生命の露を受けよ。祝福は滴り、傷は鎮まり、再び汝を照らさん "命帝の恩寵"!」


 敵が吹き飛んだ隙を逃さず、父は祈祷で娘の傷を癒し、痛みを和らげる。娘が不安そうに見上げると、父は一瞬、申し訳なさそうな表情を浮かべる。


 だが次の瞬間、父は娘を強く突き放した。

「走れ!マリアァ!」

 そう言い、娘を前へ押し出す。


「嫌だ……嫌……」


 周囲の兵たちは追おうとするが、祈祷の影響で足が思うように動かない。

 苛立ちと怒りを滲ませながら、彼らは父のもとへ、ゆっくりと距離を詰めていった。


「早く行きなさい!

 こいつらはまだうまく動けないから!

 お前だけでも走れ!マリア!!」


  娘は涙をこぼしながら、必死に走り出した。

 背後で、父がそれでいいと言うように、静かに見送っているのが分かる。


 その瞬間――

 父は、ほとんど声にならないほど小さく、こう呟いた。


「……愛してる」


 たとえ聞こえなくてもいい。

 そう思っていたはずの言葉は、不思議と……娘の胸には、確かに届いていた。

 走りながら、娘は思わず振り返る。

 その視界に映ったのは、怒りに任せた兵たちが父を串刺しにし、父がその場に崩れ落ちる姿だった。


 父は、もう動かない。

 息絶えたのだと、理解してしまう。


 それでも……

 娘は走るのをやめなかった。

 父のために。

 そして、先に失った母のためにも。

 生きなければならない。

 そう強く心に刻み、娘は闇の中を走り続ける。


「早く追え!ガキ一匹捕まえられないのか!」


 祈祷の効果は、まだ兵たちの足を縛っていた。

 その間に、マリアは限界を忘れ、ただ走り続けていた。

 胸を締めつける悲しみの中で、

 父と母と過ごした日々の記憶が、次々と脳裏をよぎる。


 優しかった声。

 何気ない会話。

 当たり前だった時間。


 それらが交差し、胸を抉るように込み上げてくる中でも、マリアは足を止めなかった。


 ――パパ……ママ……!

 ……リリスちゃん!


 マリアは、親友から受け取ったブローチを強く握りしめ、暗い夜の中を走り続けていた。

 やがて道の先に、鬱蒼とした森が姿を現す。


 ……森には入るな。

 そう言われていたことは、覚えている。


 だが、深く入りさえしなければ大丈夫だろう。

 そう自分に言い聞かせ、マリアは少しだけ森の中へ足を踏み入れた。

 数十メートルほど進み、背の高い草むらを見つけると、その中に身を潜める。

 追っ手の気配がないことを確かめながら、しばらく息を潜めて隠れた。


 震える手でブローチを握り締め、

 マリアは静かに目を閉じ、祈りを捧げた。


 ――ゴッドルー様……どうかお導きを……


 祈りを続けていると、遠くから蹄の音が近づいてくるのが分かった。

 先ほどの騎馬が、二人追ってきていたのだ。

 マリアは息を殺し、そっと草の隙間から様子を窺う。

 すると騎兵の一人が、鈴のようなものを手にしているのが見えた。


 チリン、チリン――


 微かな音を鳴らしながら、

 その音を頼りにするように、二人はまっすぐ森に入り、こちらへ向かってきていた。


「しかし便利なもの持ってたな」


「ああ、実に便利な術式が編み込まれた鈴だ。

 鳴らすだけでこちらの探し物まで案内してくれる」


「さぁて、魔族の娘はどこだろうか……」


  鈴の音色に、これほど怯えたことはなかった。

 マリアは必死に息を潜め、身を縮めて隠れる。


 だが……

 あの鈴から、身を隠すことは無理なのだろう。

 近づくにつれ、

 チリン、チリンという音は次第に鈍く、重くなっていった。

 そして音が最も鈍くなった、その瞬間。


 兵士の足が、ぴたりと止まる。

 そこは、

 マリアが身を潜めている草むらの、すぐ目の前だった。


「ここの草の中にいるって?」


「見ておけ」


 草むらの中へ、突然手が突っ込まれた。

 次の瞬間、マリアの体は乱暴に引き上げられる。


「やっ……!」


 マリアは涙を流しながら必死に暴れた。

 腕を振り、逃れようとするが、すぐに押さえつけられてしまう。


「すっげぇ。ほんとうにいやがった」


「米粒ですら見つけだす鈴だ。

 こんな子娘一匹どうということはない」


 引き上げられた拍子に、マリアの手からブローチがこぼれ落ちていた。

 それに気づいた兵が、足元に落ちたそれを拾い上げる。

 

「ん?おお!こりゃあなかなかいいブローチだな。

 売ればなかなかの額になりそうだ」


 マリアは歯を食いしばり、

 兵を睨みつけるように、反抗的な眼差しを向け、

「汚い手で触らないで!」と声を吐き出す。


「あ?なんだその反抗的な態度。

 自分がどんな状況かわかってんのか?」


 反抗的な視線を向けるマリアに対し、兵は無言のまま槍を突き立てた。

 腹を浅く掠めるように刺され、赤い血がぽたりと滴る。


 マリアは思わず声を上げかけたが、すぐにそれを噛み殺す。痛みに顔を歪めながら、震える息の合間、

「返して……パパとママ、妹を返してぇぇ!!!」

 と憎しみを込めた言葉を吐き捨てた。


「何言ってんだこいつ」


「勘違いしているようだが、君の両親は罪を犯したから死んだのだ。妹の方はしらんが。

 

 恨まないでくれたまえ。我々も仕事なものでな」


 あまりの返答に、言葉が出なかった。

 何も言い返せず、ただ現実の重さに押し潰される。


 マリアは、耐えきれずに大きく泣き出してしまった。


「うわぁぁぁぁぁぁん」


「はぁぁーうるせぇうるせぇ」


「放っておけ、最後の最後に涙ぐらい出させてやろうではないか」


「ならばその最後に、私にその子を任せてくれないか?」


 兵がマリアを連れて行こうとした、そのときだった。

 本当に、あまりにも突然のことだった。

 背後から、優しい女性の声が低く響く。

 兵とマリアは反射的に振り返った。


 次の瞬間、兵士は目を見開き、大きく息を呑む。


 そこにいたのは……人ではない。

 いや、よく見ればそれは、獣だった。


 夜、しかも森の中でもわかる。

 神々しいほど美しい白い獅子。

 闇の中に立つその姿は、まるでこの世のものとは思えなかった。


「っ、セラフィオン、彼らはどうやら私よりお前に

 驚いたようだ」


 獅子が数歩前に出ると、声の主が姿を現した。


 その女性は、まるで地上に舞い降りた女神のようだった。

 整った顔立ち、淡い金色の髪は月光を受けて輝き、ゆるく波打ちながら肩口まで流れている。

 凛とした青い瞳は強い意志を宿し、恐れも迷いも感じさせない。

 身体には、深い蒼を基調とした重厚な鎧を纏っていた。

 精巧に作られた装甲は、女性の体躯に合わせて無駄なく整えられ、

 力強さと美しさを同時に感じさせる造形をしている。

 胸元には白い装飾布があしらわれ、

 その上から青い外套が肩にかけられていた。

 夜風を受けてなびくそのマントは、彼女が高位の存在であることを静かに主張している。


 腰には剣……

 美しさ、気高さ、威圧感、そしてどこか神々しさ。

 獅子の上に騎乗する彼女は、周囲の空気を支配していた。


「な、なんだあんた……。

 どこの所属だ!?」

「失礼ですが、その身なり……

 高位の騎士であらせら――」


「貴公らは……一体何をしている?」


 兵は驚きながらも、味方だと信じて一歩前に出て声をかけたが、それは女騎士の声に潰された。


「重罪人を捕まえたところです。

 密出国の容疑がかかっているため、我々は早くこの娘を連れて城へ戻りますので……」


「残念だが、私の目には見えている。

 貴様らが偽りを話したこと、

 そしてその子に何をしたのかも……全て。

 故に、貴様たちに贖罪の機会をやる。」


「一体……何をおっしゃ――」


「聖穿(セフィール・ヴォーラ)」


 突如、騎士は左手を、少女を掴んでいる兵へと向けた。

 短い詠唱が紡がれた瞬間、手のひらを眩い黄金の光が覆う。やがてその光は鋭く放たれ、一直線に兵へと突き刺さった。

 衝撃とともに、兵はマリアから手を離し、宙を舞う。

 そのまま抗うこともできず、大きく吹き飛ばされ、

 大きな音と共に、向こうの木へとぶつかる。


 ――ドガァァァァン


 マリアと、もう一人の兵士は、あまりの出来事に言葉を失った。

 驚きのあまり、開いた口が塞がらない。


 やがて兵は、恐る恐る女騎士のほうへ顔を向ける。

 そこにあったのは……感情の起伏すら感じさせない、無表情。

 慈悲も迷いもなく、

 ただ冷酷としか言いようのない眼差しだった。


「グウィン七雄 第三壁

 聖王、アリスティア・ロンド・オーレリア

    私は貴様らに死を与える。

              それを贖罪と知れ」


「……っ!た、助けて!」


「……?私の名を知らないのか。無知にも程がある」


 兵の必死な命乞いは、首を傾げる女騎士の耳には届かなかった。

 再び、彼女の前に黄金の光が生まれ、迷いなく放たれる。


 その光は一直線に逃げだした兵士の背を貫き、

 為す術もなく、その場に崩れ落ちた。

 ……裁きは、一瞬で終わった。


「今この場は私が支配している。

 故に罰を与えるのも私であるべきだ」


 やがて女騎士は、白い獅子から静かに降りる。

 そして、唖然とした表情のままのマリアの前に屈み込んだ。


「私はアースヴァロンから遠征にきた。

 聖王、アリスティア・ロンド・オーレリアだ」


「……わ、私は、マリアっていいます……」


 短く名を告げる。

 マリアも、震える声で自分の名前を名乗った。


 すると女騎士は、マリアの瞳をまじまじと見つめた。

 その澄んだ眼差しに射抜かれ、マリアは思わず息を呑む。

 整った顔立ちの騎士に見つめられ、

 相手が同性だと分かっていても、マリアの頬は自然と赤く染まってしまった。


「……そうか、そんなことがあったとは。

         君、行くあてはあるのか?」


「……え?」

 ――なんでいきなりそんなこと……?


「不思議か?私には全て鮮明に見えている。

 君の家族のことも、君自身が受けた希望や絶望も。

 故に、今はただこれを……」


 そう言うと、聖王と呼ばれる騎士は、そっとマリアを抱き寄せ、そのまま自身の胸へと包み込んだ。

 突然のことに、マリアは動揺する。

 聖王はそれを察し、静かに頭へ手を伸ばし、優しく撫でて落ち着かせた。


「よくぞ諦めず走り抜いた。

 この身、この剣、この誇り。すべてを賭して君を護ろう。

聖王の名に誓う。もう君に刃は届かせない」


 撫でられているうちに、次第に緊張がほどけていく。

 それはまるで……母のような抱擁だった。

 落ち着きを取り戻したその瞬間、

 マリアの堪えていた感情が、一気に溢れ出す。


「……うぁぁぁ!パパ……ママ……。

 お願いします、お願いします。

 どうか……パパとママ……妹を殺した奴らを殺してください……。

 あれじゃあ……いぬじになんです……!」


 溜まりに溜まった涙が頬を伝い、

 マリアは自分から聖王にしがみつくようにして、

 泣き続けた。


「……犬死にではない。君の家族は、君に意味を残しているではないか。君がそこで犬死にと断ずれば、彼らの死は空虚へと堕ちる」


「…………っ!」


「今は泣け。しかし目を逸らさずに歩もう。

 彼らの死を空虚から君が救い出せ」


 聖王の言葉を聞き、マリアはそっと顔を上げた。

 目の前にあったのは、偽りのない、ただ優しさだけを湛えた表情。

 まるで女神のようなその顔を見つめているうちに、マリアの胸には言葉にできない感情が広がっていく。


 やがて、しばらくのあいだ……

 白い獅子に守られるようにして、二人は静かに抱き合っていた。

 深い森の中に、

 マリアの小さな鳴き声だけが、いつまでもこだましていた。

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