第九話 金
日本海側の港で、一人の男が死んでいた。
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
全18話。
名古屋の会社を調べると、金の流れは複雑だった。
複雑だから違法、というわけではない。
海外と取引する会社なら送金先が複数あっても不思議ではないし、仲介業者を挟むこともある。
中国。
東南アジア。
アメリカ。
メキシコ。
さらに別の地域。
契約書もある。
請求書もある。
品目も書かれている。
表面だけを見れば商取引だ。
「これ、俺たちの仕事ですかね」
若い刑事が資料の山を見ている。
「違う気がしてきた」
「やっとですか」
「でも死体から来た」
「全部そこに戻るんですね」
「戻らないと迷子になる」
真壁は一枚の送金資料を持ち上げた。
「金は動いてる」
「会社ですから」
「そうなんだよな」
そこが困る。
会社が金を動かす。
当たり前だ。
海外企業と取引する。
それも当たり前。
中国企業から商品を仕入れる。
普通にある。
普通のものを積み上げても、普通にしか見えない。
だが公安はこの会社を見ている。
国外の機関も、名前の分からない男の写真を持っている。
そして、何人かの人間が記録の途中から見えなくなる。
何かがある。
ただ、それが何なのか分からない。
---
数日後、佐伯が再び県警へ来た。
今度は一人ではない。
スーツ姿の別の男が同行している。
紹介は簡単だった。
「国外の捜査機関から照会が来ています」
真壁が聞く。
「どこ」
佐伯は一瞬迷う。
「アメリカです」
真壁は椅子へ座り直した。
「死体の男?」
「それも含みます」
机に資料が置かれる。
すべてを見せてもらえるわけではない。
黒く伏せられた部分も多い。
会社名。
人物名。
送金。
暗号資産。
中国側の企業。
アメリカ側の捜査対象。
メキシコ。
真壁はページをめくる。
「何だ、これ」
若い刑事も横から見る。
これまで見ていたものと規模が違う。
名古屋の小さな会社だけの話ではない。
寧波の一社だけでもない。
複数の国。
複数の会社。
複数の人物。
金が行き来している。
佐伯が言う。
「我々が名古屋の会社を見ていた理由の一つです」
「一つ?」
「これだけではありません」
「またそれか」
真壁は資料をめくる。
あるページで止まった。
中国の化学関連企業。
見覚えのある名前がある。
寧波で調べた会社そのものではない。
だが取引関係の先にいる。
「化学会社ばかりだな」
誰も答えない。
「何を売ってる」
佐伯ではなく、同行してきた男が答えた。
「化学原料です」
「何の」
沈黙。
真壁が顔を上げる。
「そこ大事だろ」
男は佐伯を見る。
佐伯が小さくうなずく。
「アメリカ側が追っているのは、合成麻薬に関係するネットワークです」
若い刑事の表情が変わる。
真壁はまだ資料を見ている。
「合成麻薬?」
「はい」
「覚醒剤?」
「違います」
一枚の資料が真壁の前へ置かれた。
英語が多い。
その中に、カタカナでも見たことのある単語がある。
真壁は指でなぞった。
「フェンタニル……」
部屋が静かになる。
若い刑事が佐伯を見る。
「これ、あの死体と関係あるんですか」
「分かりません」
佐伯は即答した。
真壁が顔を上げる。
「分からない?」
「我々にもです」
「写真まで持ってたんだろ」
「写真があることと、何者か分かることは同じではありません」
真壁は黙る。
どこかで聞いたような話だと思った。
顔がある。
記録がある。
名前がある。
それでも、人間がつながらない。
真壁は資料を閉じた。
「じゃあ薬が日本を通ってるのか」
佐伯は答えなかった。
同行の男も黙っている。
その沈黙が妙だった。
真壁は二人を見る。
「違うのか?」
佐伯がゆっくり口を開く。
「そこが、我々にも分からないんです」
「何が」
「日本の役割です」
真壁の前には、寧波。
名古屋。
アメリカ。
メキシコ。
化学会社。
送金。
そして、フェンタニル。
これだけ並べれば、一本の線に見える。
だが一つだけ足りない。
日本を通ったはずのものが見えない。
真壁は資料を見ながら言う。
「金か?」
佐伯は答えない。
「日本は金を洗う場所なのか」
「可能性は調べています」
「じゃあ五人は?」
今度は誰も答えなかった。
真壁はそこで初めて気づいた。
金の話をしている間も、五人の人間だけが説明から浮いている。
薬なら、薬を追えばいい。
金なら、金を追えばいい。
会社なら、会社を追えばいい。
では――
人間は何のために消える。
窓の外はもう暗い。
真壁は冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
温め直す気はない。
「佐伯」
「はい」
「これ、薬の事件じゃないだろ」
佐伯の目が動いた。
「少なくとも、それだけじゃない」
返事はなかった。
その沈黙だけで十分だった。
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続きは明日、3話投稿予定です。
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