第六話 名古屋の男
日本海側の港で、一人の男が死んでいた。
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
全18話。
名古屋の九月は、まだ夏を手放す気がないらしい。
駅を出た瞬間、まとわりつく熱気に真壁は顔をしかめた。
「暑いな」
「アイスコーヒー買います?」
同行してきた若い刑事が、駅前の店を指す。
「いらん」
「冷たいですよ」
「あれは俺の飲みたいアイスコーヒーじゃない」
「また始まった」
「何が」
「何でもありません」
若い刑事は自分の分だけ買った。
透明なカップの中で、氷がからりと鳴る。
真壁が横目で見る。
「いいか。本当にアイスで淹れるなら、まず豆の焼き方が違う」
「やっぱり始まった」
「そこからだぞ」
「捜査しましょうよ」
「してる」
「今、豆の話しかしてません」
真壁は若い刑事のカップを見る。
「それにな、淹れる時に――」
「もういいです」
「まだ大事なところを言ってない」
「事件の大事なところを探してください」
真壁は不満そうに口を閉じた。
---
目的の会社は、名古屋市内の雑居ビルに入っていた。
拍子抜けするほど普通の会社だった。
入口に小さな看板がある。郵便受けにも法人名。電話番号も登記も確認できる。
人の出入りもある。
少なくとも、外から眺めただけで「犯罪組織の拠点です」と名乗っているような場所ではない。
「普通ですね」
若い刑事が言う。
「普通だな」
「もっと怪しいと思ってました?」
「怪しい会社が怪しい顔してたら警察はいらん」
「それもそうですね」
周囲を歩く。
出入口を確認し、近隣の店舗にも寄る。
会社名を知っている人間はいる。
荷物の集配もある。
社員らしい人間も出入りする。
ますます普通だ。
だからこそ、真壁には判断がつかなかった。
寧波の化学関連企業と取引がある。
それだけなら、何の不思議もない。
貿易をしている会社なら海外企業との取引など珍しくもない。
日本海側の港で死んでいた男。
中国のコンビニ。
寧波。
化学関連企業。
そして名古屋。
線はつながっているように見える。
ただし、線がつながって見えることと、本当につながっていることは別だ。
「休憩するぞ」
「珍しいですね」
「暑い」
道路の向かいにある喫茶店へ入った。
窓際の席から、目的のビルの入口が見える。
真壁はブレンドを頼む。
運ばれてきたカップへ口をつけ、眉を寄せた。
「熱い」
「またですか」
「熱いものは熱い」
「捜査対象は向こうですよ」
「見えてる」
「ずっとコーヒー見てますけど」
「両方見てる」
「便利ですね、人間の目」
「お前も二個あるだろ」
若い刑事が何か言い返そうとした。
その時、真壁の視線が止まった。
ビルから一人の男が出てくる。
紺色のポロシャツ。
黒いパンツ。
港で見た時とは服装が違う。
だが、顔は同じだ。
真壁はカップを置いた。
「いた」
「誰が?」
「港の男」
若い刑事の顔から笑いが消えた。
「どれです?」
「紺」
男は周囲を気にする様子もなく歩き始める。
真壁が立つ。
「行くぞ」
「会計は?」
「払う」
「そこは普通なんですね」
「俺を何だと思ってる」
会計を済ませ、二人は店を出た。
テーブルには半分ほどコーヒーが残った。
真壁が一度だけ振り返った。
少し惜しそうな顔をした。
---
男は地下街へ降りていく。
真壁たちは距離を取った。
港では一度逃げられている。
同じことを繰り返す気はない。
人の流れに紛れ、一定の距離を保つ。
男は振り返らない。
一度も。
「気づかれてますかね」
若い刑事が声を落とす。
「たぶんな」
「じゃあ、なんで逃げないんでしょう」
「それが分からん」
地下街は人が多い。
買い物客。
学生。
仕事帰りらしい男。
旅行鞄を引く外国人。
その間を紺色の背中が進んでいく。
男が角を曲がる。
真壁も続く。
そして足を止めた。
男は十メートルほど先に立っていた。
逃げたのではない。
待っている。
若い刑事が真壁の横に並ぶ。
「行きます?」
「そのために来た」
真壁は歩いた。
五メートル。
三メートル。
そこで男が口を開く。
「ずいぶん遠くまで来ましたね」
「やっぱり港にいたな」
「何のことでしょう」
「とぼけるなら、もう少し驚いた顔をしろ」
男の表情は変わらない。
代わりに、真壁の顔をじっと見る。
「県警の真壁さん」
真壁の足が止まった。
若い刑事も反応する。
こちらは名乗っていない。
「俺を知ってるのか」
「ええ」
「俺はあんたを知らない」
「その方がいい」
「俺にはよくない」
男は答えない。
地下街の雑踏だけが二人の間を流れていく。
やがて男が言う。
「寧波までたどり着いたんですね」
今度は若い刑事が息を呑んだ。
真壁は表情を変えない。
だが頭の中では、一気に警戒が上がる。
寧波。
県警の中でも、この捜査を知る人間は限られている。
目の前の男へ話した人間などいない。
「誰だ、あんた」
返事はない。
「どうして寧波を知ってる」
男は真壁の質問を無視する。
「その死体から離れた方がいい」
「理由は?」
「あなたの仕事ではなくなる」
真壁は少し首を傾けた。
「まだ俺の仕事だよ」
「なぜ?」
「名前が分かってない」
男の眉が、ほんのわずかに動いた。
真壁はそこを見逃さなかった。
「死んだ男の名前だ」
「それを探しているんですか」
「最初からな」
正確には途中で五人増えた。
だが始まりは一人。
日本海の港で、名前も持たずに死んでいた男だ。
真壁は一歩近づく。
「港で使ってた写真」
男の顔から、わずかに残っていた表情が消える。
「あれは死体の写真じゃない。生きてる時の写真だ」
沈黙。
「どこで手に入れた?」
答えない。
「知ってるんだろ、あの男を」
地下街のアナウンスが流れる。
二人とも聞いていない。
「名前は何だ」
男は真壁を見つめた。
長い沈黙。
やがて、低い声が返ってくる。
「それが分かっていたら――」
言葉が切れる。
「私たちも、こんなことはしていません」
真壁は黙った。
私たち。
一人ではない。
しかも生前の写真を持っている。
顔を知っている。
それなのに名前は知らない。
謎が一つ解けるどころか、増えた。
「じゃあ、あんたの名前から聞こうか」
男はポケットへ手を入れる。
若い刑事の身体が硬くなった。
出てきたのは黒い名刺入れ。
男は開き、一枚に指を掛ける。
しかし取り出さない。
「まだ早い」
「何が早い」
名刺入れが閉じる。
「いずれ分かります」
「そういう台詞、嫌いなんだよ」
「でしょうね」
初めて、男の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「俺のこと随分知ってるな」
「少しだけ」
男は歩き出す。
若い刑事が真壁を見る。
「追います?」
真壁は答えない。
紺色の背中が人混みへ溶けていく。
「真壁さん?」
「いい」
「逃がすんですか?」
「向こうは俺を知ってる」
「それが?」
「必要になれば向こうから来る」
「来なかったら?」
「その時は探す」
「今探した方が早くないですか?」
「たぶんな」
「じゃあ追いましょうよ」
真壁は動かなかった。
何かを考えている。
「港では逃げた」
「はい」
「今日は待ってた」
若い刑事も男が消えた方向を見る。
「……確かに」
「俺たちに会う必要ができたんだろ」
「だったら名乗ればいいのに」
「名乗れない理由がある」
「犯罪者ですかね」
真壁は首を振らない。
肯定もしない。
「分からん」
分からないことを、分かったふりはしない。
それが真壁の数少ない長所だった。
---
地下街を戻りながら、若い刑事が言う。
「さっきの喫茶店、戻ります?」
「何で」
「コーヒー半分残ってたでしょう」
真壁が時計を見る。
それなりに時間が経っている。
「もう冷めてるな」
「じゃあ新しいの頼みましょう」
「いや、残ってるならあれでいい」
若い刑事が怪訝そうな顔をする。
「冷めたコーヒーですよ?」
「だから何だ」
「温め直してもらえば?」
真壁が足を止めた。
「それは駄目だ」
「何でです?」
「一度冷めたコーヒーを沸かし直すと、まずくなる」
「冷めたままの方がいいんですか?」
「そのまま飲めばいい」
「冷たいじゃないですか」
「冷めたんだから当たり前だろ」
若い刑事は数秒、真壁を見つめる。
「……面倒くさいですね」
「何が」
「全部です」
真壁は再び歩き始めた。
「冷めたものには、冷めた時の味がある。わざわざ壊す必要はない」
「深いこと言ってるように聞こえますけど」
「コーヒーの話だ」
「事件には関係ない?」
「ない」
即答だった。
---
二人が喫茶店へ戻っていくころ、紺色のポロシャツの男は地下街の別の出口にいた。
人通りの少ない場所まで来ると、スマートフォンを取り出す。
発信先の名前は表示されていない。
相手が出た。
「私です」
しばらく聞く。
「県警が名古屋まで来ています」
短い沈黙。
「ええ。寧波にも気づいています」
電話の向こうから何か聞かれる。
男は壁にもたれた。
「ほとんど何も分かっていません」
相手が何か言う。
「いえ」
男は真壁の顔を思い浮かべる。
自分たちが追っているものとは違う。
あの刑事が追っているのは組織でも、会社でもない。
最初から一人。
名前のない死体だ。
「あの刑事は、男の名前を探しています」
電話の向こうが静かになる。
『それだけか』
「今は」
『なら問題ない』
男はすぐには答えなかった。
港。
中国。
寧波。
名古屋。
名前一つを探しているだけの刑事が、もうここまで来ている。
「問題になるかもしれません」
『なぜだ』
男は少し考える。
「こちらが見ているものと、見ている場所が違う」
『どういう意味だ』
「私たちは組織を見ています」
男は地下街を行き交う人々へ目を向けた。
「彼は、人を見ている」
しばらく沈黙が続く。
『接触は』
「しました」
『所属を明かしたのか』
「いいえ」
『なら、そのままにしておけ』
「分かりました」
通話を切ろうとして、男は付け加える。
「ただ――」
『何だ』
「こちらが止めても、たぶん続けます」
『根拠は』
男の口元が少しだけ緩む。
「窓際だそうです」
『何?』
「いえ。何でもありません」
通話を切る。
男はスマートフォンをポケットへ戻した。
そのころ真壁は、すっかり冷めたコーヒーを前に座っていた。
一口飲む。
若い刑事が聞く。
「どうです?」
真壁はしばらく味を確かめる。
「……こっちの方がましだな」
「最初、熱すぎましたからね」
真壁の手が止まる。
若い刑事を見る。
「お前、分かってきたな」
「何がです?」
「コーヒーだよ」
事件の方は、まだ何も分かっていなかった。
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続きは明日、3話投稿予定です。
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