第五話 寧波
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
翌朝、真壁は豆を挽かなかった。
若い刑事がそれに最初に気づいた。
「真壁さん」
「何だ」
「コーヒーは?」
「あと」
若い刑事は隣の刑事を見た。
隣の刑事も真壁を見た。
「何だよ」
「いや」
「気持ち悪いな」
「真壁さんがコーヒー淹れない方が気持ち悪いです」
「俺はコーヒーメーカーじゃない」
そう言いながら、真壁は寧波の地図を開いていた。
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レシートはひどく傷んでいた。
だから、店舗名が完全に残っているわけではない。
だが数字の一部が残っていた。
店舗を特定できる可能性が出てきた。
照会。
確認。
また照会。
すぐに答えが出るような話ではない。
真壁が嫌いな言葉の一つが「だいたい」だった。
だいたいこの辺。
だいたい同じ。
だいたい合っている。
人間は「だいたい」で暮らせる。
捜査資料は、そうはいかない。
候補店舗を絞る。
レシートの書式。
残っていた番号。
周辺情報。
完全な一点にはならない。
だが、範囲は狭くなった。
そして真壁は、その周辺地図を眺めていて手を止めた。
「工場多いな」
「港町ですからね」
若い刑事が答えた。
倉庫。
物流会社。
機械関係。
化学関連。
大小の企業が並んでいる。
真壁はレシートを見た。
コンビニで買い物をした。
それだけだ。
近くに化学会社があるからといって、その会社と関係があるとは限らない。
そんな推理を始めれば、コンビニの客全員が周辺企業の関係者になる。
「これは飛躍だな」
真壁が言った。
「珍しく自分で言いましたね」
「俺だって分かる」
「じゃあやめます?」
「調べる」
「ですよね」
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候補となった店舗周辺の企業を洗う。
その中に、海外取引の多い化学関連企業があった。
男がそこの社員だった可能性。
取引先。
技術者。
営業。
運転手。
ただの訪問者。
何でもあり得る。
照会をかけた。
返ってきた答えは簡単だった。
**該当者なし。**
社員名簿に一致なし。
関係者として確認できず。
写真による確認でも該当者なし。
「また外れた」
若い刑事が言った。
真壁はコーヒーを飲んだ。
今日は八十度だった。
「外れたのは男だけだ」
「どういう意味です?」
「会社は残ってる」
「真壁さん」
「何だ」
「また始めるんですか」
「何を」
「関係ない会社まで全部調べるやつ」
真壁はカップを置いた。
「全部は調べない」
若い刑事が安心した顔をした。
「関係あるところだけ調べる」
「その関係あるところを全部調べるんでしょう?」
「そうとも言う」
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会社の取引関係を追う。
輸出入。
関連会社。
取引先。
代理店。
日本企業。
そこで一つの法人名が出てきた。
所在地は愛知県。
「名古屋?」
真壁は画面を見た。
日本海の港から始まった。
レシートは中国だった。
中国を追った。
寧波まで行った。
そして線は、なぜか日本へ戻ってきた。
しかも名古屋。
若い刑事が言った。
「偶然じゃないですか」
真壁は答えなかった。
「中国企業が日本企業と取引してても普通でしょう」
「普通だな」
「じゃあ」
「普通だから調べないのか?」
若い刑事が黙った。
真壁は立ち上がった。
「どこ行くんです?」
「係長」
「許可取るんですか?」
「一応な」
「一応?」
真壁は振り返った。
「俺も組織人だから」
課の全員が一斉に真壁を見た。
「何だよ」
誰も答えなかった。
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続きは明日、3話投稿予定です。
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