第四話 寧
日本海側の港で、一人の男が死んでいた。
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
真壁は、その日のコーヒーを失敗した。
豆ではない。
モカ・マタリとブラジル・サントス。
いつもの組み合わせだった。
挽き方も同じ。
湯温も八十度。
問題は蒸らしだった。
五人の資料を眺めながら湯を注ぎ、気がついたら四十五秒経っていた。
十五秒。
真壁にとっては大きな誤差だった。
一口飲む。
「……違うな」
「何がです?」
向かいの若い刑事が言った。
「十五秒」
「何の話です?」
「蒸らし」
「知りませんよ」
真壁はカップを置いた。
「十五秒違えば結果も変わる」
「コーヒーですよね?」
「コーヒーだからだ」
若い刑事は何も言わなくなった。
最近、この課ではそれが最も効率的な真壁への対処法になっていた。
---
五人。
中国から正規に入国した五人。
その後の足取りを、真壁が追える範囲ではきれいにつかめない。
だが、五人の間に共通点は見つからなかった。
年齢も違う。
職業も違う。
入国時期も完全には一致しない。
訪日目的も違う。
何より、五人とも港の遺体ではない。
係長の言う通りだった。
たまたま見つけた別件に首を突っ込んでいるだけなのかもしれない。
「今日はもう帰れ」
係長が言った。
「まだ六時だぞ」
「お前がいると若いのが帰りづらいんだよ」
「帰ればいいだろ」
「そういう問題じゃない」
真壁は時計を見た。
「じゃあ帰る」
係長が意外そうな顔をした。
「素直だな」
「腹減った」
それだけだった。
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県警本部を出たところで雨が降り始めた。
傘を持っていなかった。
真壁は近くの喫茶店へ入った。
チェーン店ではない。
古い店だった。
こういう店ならコーヒーも多少はまともだろう。
「ブレンド」
注文してから、少し後悔した。
自分で淹れればよかった。
出てきたコーヒーを一口飲む。
熱い。
「九十度近いな……」
誰にも聞こえない声で言った。
胸ポケットから、折り畳んだコピーを出した。
水損したレシート。
**美宜佳**
その下。
**寧**
五人を追っても何も出ない。
なら、最初へ戻る。
真壁は「寧」を見た。
人名。
地名。
店名。
商品名。
何でもあり得る。
「何なんだ、お前は」
レシートに話しかけた。
その時だった。
「これ、日本にもあるじゃん」
隣の席から声がした。
二人の女性がいた。
三十代くらいだろうか。
片方が紙袋から菓子をいくつも取り出している。
「中国のお土産」
「え、これ日本のじゃない?」
「向こうの味。日本じゃ見ないやつ」
見覚えのある日本メーカーのロゴ。
だがパッケージの色も、書かれている味も真壁には見覚えがなかった。
「へえ」
「コンビニで買った」
袋から小さな紙が落ちた。
女性が拾ってテーブルへ置いた。
真壁は何気なく見た。
そして固まった。
四文字。
**美宜佳**
真壁は立ち上がった。
「すみません」
二人が同時にこちらを見た。
「はい?」
「そのレシート、ちょっと見せてもらえませんか」
空気が凍った。
当然だった。
五十六歳の知らない男が、突然女性二人のテーブルへ来てレシートを見せろと言っている。
真壁は慌てて警察手帳を出した。
「すみません。県警です。変な意味じゃない」
女性の一人が笑った。
「警察の方がレシート?」
「そういう日もあります」
「どんな日ですか」
「俺も初めてです」
レシートを借りた。
印字は鮮明だった。
真壁は自分のコピーと見比べた。
店名。
番号。
日時。
商品。
そして上部にある文字列。
真壁が指を置いた。
「ここ、何が入るんです?」
女性が覗き込んだ。
「場所じゃないですか?」
「場所?」
「これ、深圳で買ったから。ほら、深圳って書いてある」
真壁の指が止まった。
「市?」
「そうですね」
真壁は自分のコピーを開いた。
**寧**
もう一度、女性のレシートを見る。
印字位置。
文字列の並び。
余白。
似ている。
「ありがとうございました」
レシートを返した。
「事件ですか?」
女性が聞いた。
真壁は少し考えた。
「まだ分かりません」
店を出るころには、雨はまだ降っていた。
真壁は傘を買うのを忘れた。
県警まで走った。
今日は二度目だった。
---
「中国で『寧』が入る市を出してくれ」
若い刑事が顔を上げた。
「何ですか突然」
「市だ。地名」
「レシートですか?」
「たぶんな」
検索する。
候補が出る。
真壁は一つずつ見る。
そして、その名前で手が止まった。
**寧波市。**
「寧波……」
若い刑事が言った。
「これですか?」
真壁は首を振った。
「まだだ」
「違うんです?」
「分からん」
「じゃあ何で――」
「似てるだけだ」
真壁は鑑識へ電話した。
印字位置。
残存部分。
紙幅。
数字。
読み取れる痕跡。
一つずつ確認する。
夜十時を過ぎた。
鑑識員が最後に言った。
「断定はできませんよ」
「分かってる」
「でも?」
真壁はモニターの文字を見た。
**寧波市**
「今までで一番ましな候補だ」
電話を切った。
若い刑事が欠伸をした。
「真壁さん」
「ん?」
「今日、帰れって言われてませんでした?」
真壁は時計を見た。
「そうだったな」
「十時半ですよ」
「十五秒どころじゃないな」
「何の話です?」
真壁は答えなかった。
画面には、
**寧波**
の二文字が残っていた。
お読み頂きありがとう御座います。
続きは明日、3話投稿予定です。
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