第十五話 洗う
日本海側の港で、一人の男が死んでいた。
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
全18話。
佐伯が持ってきた資料には、三種類の人間がいた。
中国側で確認された人物。
日本へ入国した人物。
国外で日本人として確認された人物。
名前は違う。
国籍も違う。
記録だけを検索すれば、別人。
だが写真を並べると、そう簡単ではない。
真壁は机の上へ三枚を置いた。
「同じに見えるな」
「はい」
「でも記録では三人」
「そうです」
「便利だな、記録って」
佐伯が真壁を見る。
「皮肉ですか」
「半分」
「残り半分は?」
「怖いと思ってる」
佐伯は答えなかった。
真壁が聞く。
「どうやった」
「分かりません」
「本当に?」
「少なくとも、全体は」
「誰が?」
「分かりません」
「名古屋の会社?」
「関与を調べています」
「寧波?」
「同じです」
「死んだ男は?」
「分かりません」
真壁が机を軽く叩く。
「分からんことだらけじゃないか」
「だから調べているんです」
以前、自分が何度も言った言葉だった。
真壁は少し嫌そうな顔をする。
「俺の台詞取るな」
「知りませんよ」
***
佐伯は別の資料を出す。
「一つ、分かったことがあります」
「何だ」
「国外で確認された日本人の何人かが、アメリカ側の捜査対象と接触しています」
「フェンタニル?」
「関連するネットワークです」
若い刑事が聞く。
「運んでるんですか?」
「確認できていません」
「じゃあ何をしてるんです?」
「それを調べています」
真壁は資料を見る。
会社。
金。
人。
薬。
全部が同じ場所にあるのに、それぞれ少しずつ離れている。
薬を扱う人間。
金を動かす人間。
会社を作る人間。
人間を移動させる人間。
一つの組織が全部やっているようには見えない。
むしろ逆。
分かれている。
だから捕まえても、そいつが知っているのは一部分だけ。
「こいつら、自分が何やってるか全部知らないんじゃないか」
佐伯が真壁を見る。
「我々も、その可能性を考えています」
「会社は会社」
「はい」
「金は金」
「人は人」
「薬は薬」
若い刑事が言う。
「それを別々に追ってたから、つながらなかった?」
誰も答えない。
答えなくても、机の上がそう見せている。
真壁は一枚の写真を持ち上げた。
中国人として入った男。
別の紙。
日本人として国外に現れた男。
顔は同じ。
記録は別人。
「金なら、こういうの何て言うんだ」
若い刑事が答える。
「マネーロンダリング?」
「日本語だと?」
「資金洗浄」
「洗う、か」
真壁は写真を机へ戻した。
佐伯が真壁を見る。
「何を考えてます?」
「金は汚れた出所を分からなくするために洗う」
「ええ」
「会社を何枚も通す。場所を変える。名前を変える」
佐伯は黙って聞いている。
「入口と出口だけ見たら、元が分からなくなる」
若い刑事が真壁を見る。
真壁の視線は二枚の写真から動かない。
「こいつらも同じじゃないのか」
「何がです?」
「人間だよ」
部屋が静かになった。
「中国人として入る」
一枚目。
「日本を通る」
二枚の間。
「日本人として出ていく」
二枚目。
「途中を見なきゃ、同じ人間だと分からない」
若い刑事が小さく呟く。
「人間を……洗ってる?」
真壁はその言葉を聞いた。
佐伯も。
誰もすぐには続けない。
やがて真壁が言う。
「人間ロンダリング」
若い刑事が眉を寄せる。
「そんな言葉あるんですか」
「知らん」
「ないんじゃないですか」
「なら今つけた」
佐伯が口を開く。
「正式な用語にはしないでください」
「するか」
「報告書にも書かないでください」
「分かってる」
真壁は二枚の写真を見る。
名前が違う。
国籍が違う。
だが人間は同じかもしれない。
洗われているのは人間そのものではない。
その周りにあるもの。
名前。
経歴。
国籍。
記録。
そして信用。
若い刑事が聞く。
「じゃあ、港で死んでた男は?」
その一言で空気が変わった。
真壁は名無しの男の写真を出す。
生前の写真。
遺体の写真。
公安にも名前が分からない男。
中国から入った五人にもいない。
国外で確認された日本人の一覧にも、今のところ一致しない。
「こいつは……」
真壁は言葉を止める。
もし同じ仕組みの中にいたなら。
入口が見つからない。
出口もない。
名前もない。
では、どこにいた人間なのか。
佐伯が静かに言う。
「失敗した可能性もあります」
真壁は首を振った。
「決めるな」
佐伯が黙る。
「死んだから失敗。生きて出たから成功。そんな簡単な話じゃない」
「では?」
「まだ分からん」
真壁は生前の写真を見る。
この男だけは、最初から何も変わっていない。
分からない。
それだけだ。
「まず名前だ」
若い刑事が呆れたように笑う。
「ここまで来ても、それですか」
真壁は写真を机へ置いた。
「それを調べろって言われたからな」
「窓際なのに?」
「窓際だからだろ」
佐伯が少し笑った。
真壁は気づかないふりをした。
机の上には、中国人の名前。
日本人の名前。
会社名。
国名。
金額。
化学品。
フェンタニル。
そして、そのどれにも結びつかない一人の男。
事件はようやく形を見せ始めている。
それでも最初の問いだけが残っていた。
――お前は、誰なんだ。
お読み頂きありがとう御座います。
続きは明日、3話投稿予定です。
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