第十二話 出口
日本海側の港で、一人の男が死んでいた。
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
全18話。
時計は午後九時二十二分。
佐伯が来るまでには、まだ時間がある。
真壁は立ち上がった。
「アイスにする」
若い刑事が時計を見る。
「今からですか?」
「今だからだ」
真壁が棚から出した豆を見て、若い刑事が首を傾げる。
「いつもの豆じゃないですね」
「当たり前だ。アイス用はまず焙煎が違う」
「そこから始まるんですね」
「深煎りだ。冷やすと香りも味の感じ方も変わるし、氷で薄まる。ホットと同じ豆を同じように淹れて冷やせば終わり、じゃない」
「聞いてないところまで説明が始まった」
真壁は手回しミルを回す。
ガリ、ガリ、ガリ。
若い刑事が、その横で妙なものを見つけた。
「真壁さん、それ何です?」
「サイフォン」
「アイスコーヒー作るんですよね?」
「そうだ」
「サイフォンで?」
「上だけ使う」
「上だけ?」
真壁はサイフォンの上部へ氷を詰め始めた。
若い刑事が黙って眺める。
ドリッパー。
その下に、氷を詰めたサイフォン上部。
さらに下には、出来上がった珈琲を受ける容器。
縦に三段。
「……そんな使い方する物なんですか?」
「しない」
「しないんですか」
「でも使える」
「専用の道具ないんです?」
「ない」
「買えば?」
真壁が若い刑事を見る。
「これでできるのに、何で買う」
「そういう人でしたね」
湯を落とす。
深煎りの豆を通った熱い珈琲が、下へ落ちる。
その先にあるのはグラスではない。
氷の層。
一滴ずつ落ちた珈琲が、氷と氷の隙間を抜けていく。
急速に熱を奪われ、さらに下の容器へ。
若い刑事が覗き込む。
「氷を後から入れるんじゃないんですね」
「違う」
「最初からグラスに氷入れとくのとも違う」
「違う」
「わざわざ途中に氷を置く」
真壁の手が止まった。
若い刑事は気づかず続ける。
「入口は熱い珈琲なのに、ここを通ったら冷たい珈琲になって出てくる」
一滴。
また一滴。
真壁は氷の層を見る。
それからホワイトボードへ目を移した。
**中国**
**A**
矢印。
**日本**
矢印。
**B**
「……途中」
「はい?」
真壁はドリッパーを見ていない。
ホワイトボードを見ている。
「俺たち、入口と出口しか見てなかった」
若い刑事も振り返る。
「中国人として入ったAと、出ていくA?」
「ああ」
真壁は日本の文字を指す。
「でも変わるのがここなら?」
若い刑事の目が、アイス珈琲へ戻る。
「途中を通って……別の状態になる」
「そうだ」
「珈琲と人間、一緒にして大丈夫です?」
「一緒にしてない」
「今しましたよ」
「珈琲は珈琲だ」
「じゃあ今の何だったんです?」
真壁は答えない。
氷の層を抜けた珈琲が、下の容器へ落ち続ける。
人間そのものが変わるわけではない。
変わるのは、その人間に付いているものだ。
名前。
国籍。
旅券。
記録。
そして、外から見た身分。
真壁はホワイトボードの**A**と**B**を見比べた。
「人間を探すから見つからないのか」
「え?」
「人間は消えてない」
真壁は日本の文字を丸で囲む。
「ここを通った時に、別のものになってる」
その時、サイフォンの氷が崩れた。
からん、と乾いた音がする。
真壁は下に溜まったアイス珈琲を見た。
入口と出口では、温度が違う。
だが同じ珈琲だ。
「……そういうことか」
若い刑事が聞く。
「何がです?」
真壁は答えなかった。
まだ証拠がない。
思いつきを答えにしてはいけない。
まず確認する。
それが真壁のやり方だ。
インターホンが鳴った。
佐伯が来た。
お読み頂きありがとう御座います。
続きは明日、3話投稿予定です。
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