第2話 泥だらけの奇跡 〜生まれて初めて知る胸の高鳴り〜
半信半疑のまま、妾は大工棟梁の作造をはじめとする、村の大人たちを呼び集めた。
そして――そこから始まったのは、妾のこれまでの常識を根底から覆す、奇跡のような光景だった。
「おい、そこの竹の節を綺麗に抜いてくれ! 継ぎ目には松脂をしっかり塗って、空気が入らないように密閉するんだ!」
宗介の指示は、驚くほど的確で無駄がなかった。
身分の上下など気にせず、百姓たちと同じように泥にまみれ、太い孟宗竹を自ら肩に担ぎ、山裾から田んぼへと竹の管を一本一本繋ぎ合わせていく。
額から滝のような汗を流し、青いシャツを泥だらけにしながら、笑顔で村人たちを励ます宗介。
「大丈夫だ作造さん、計算通りにいけば、水は必ず山の斜面を越えてここまで登ってくる!」
「へ、へえ! あっしらも命がけで繋ぎますぜ、宗介先生!」
妖術などではない。
理不尽な天を呪うのでもなく、ただ純粋な『知恵』と『工夫』、そして『人の手の力』だけで、自然の理を味方につけようとしている。
妾は竹を運ぶ手を止め、宗介の横顔をじっと見つめていた。
泥のついた頬、汗に濡れた前髪、そして何より――困り果てた見ず知らずの村人たちのために、一切の見返りも求めず、これほど必死に汗を流す男を、妾は生まれて初めて見た。
城の侍たちは、いつも口先ばかりで民を見下し、己の面子と家柄のことしか頭になかった。
だが、この青年は違う。
身分も素性も知れぬというのに、その魂は、どんな名門の武士よりも気高く、美しかった。
(……あやつは、何者なのじゃ。なぜ……あんなにも眩しい目をしているのじゃ……)
胸の奥が、トクンと小さく音を立てた。
刀を握りしめていた妾の硬い心が、温かな光に包まれて、じんわりと溶けていくような感覚だった。
妾も無我夢中で作業に加わった。
着物の裾をたくし上げ、泥水に足を取られながら、宗介に竹を手渡し、縄を結ぶ。
ふと指先が触れ合うたびに、ビクッと身体が震え、心臓が跳ね上がる。
宗介はそれに気づく様子もなく、「ありがとう、沙羅さん! 助かります!」と眩しい笑顔を向けてくるのだ。そのたびに、カッと顔が熱くなった。
そして――西の空が赤く染まり始めた夕暮れ時。
「――開通だッ! 水門を開けろォッ!!」
宗介の叫びと共に、山の上の貯水池から竹樋へと水が吸い込まれた。
ゴボゴボッ……ゴォォォッ!!
竹管を震わせる重厚な水音が山肌を駆け下り、やがて――村の取水口から、清らかな湧き水が、白く泡立ちながらドッと田んぼへと吹き出した!
「で、出たァァァッ!! 水が出たぞォォォッ!!」
「助かった……! オラたちの田んぼが助かったんだァッ!!」
歓喜に沸き立つ百姓たち。作造は男泣きに暮れ、村人たちは泥水に浸かって抱き合っていた。
その熱狂の中、宗介は息を荒く切らしながら、泥だらけの腕で汗を拭い、ふと妾の方を振り返った。
そして――夕陽を背に受けて、子どものように無邪気で、誇らしげな笑顔を向けたのだ。
「やりましたね、沙羅さん! 水が通りましたよ!」
「…………っ!」
その瞬間、妾の心臓が、跳ね上がるように激しく脈打った。
夕陽に照らされた彼の笑顔が、あまりにも眩しくて、息が止まりそうになった。
カッと耳の先まで熱くなり、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
(な、なんじゃ……!? この胸の騒ぎは……!?)
敵の白刃を前にしても、眉一つ動かさぬ神陰流の使い手たる妾が。
ただ一人の青年の笑顔を向けられただけで、足がすくみ、言葉を失ってしまっている。
妾は慌てて長い袖で顔を隠し、そっぽを向くのが精一杯だった。
「……み、見事であったぞ、宗介……」
震える声でそう絞り出すのが、やっとだった。
だが、袖の陰で激しく高鳴る胸の鼓動は、いつまでも、いつまでも治まりそうになかった。
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