第七話
第七話
マキは最後まで、アキもここに残るべきだと言い続けた。数日でもいいから、もう少しここにいるべきだと。
だがアキは、今回の旅行で無理やり休んだに近い、職場のことが気になっていた。
「残念だけど……仕事の都合がつかないんだ。今日、帰るしかないんだ」
四日間の休みでも取るのは簡単ではなかった。それをさらに休むと連絡を入れることは、アキには不可能なことのように思えたのだ。
アキの言葉にマキはうなずくこともなく、ただうつむいて言った。
「それがアキの答えなら」
マキの泊まるビジネスホテルをとり、マキを残してアキは帰路についた。
今は何かを考えるのはやめにしよう。
アキはそう思っていた。何もかもが自分の理解を超えたできごとのように、アキには思えたからだ。
サイレンのことも、マキのことも、マキが考えていることも、マキが休んでいる仕事のことも。
だから、アキは考えることをやめた。
だから、マキにこれからどうするのかを尋ねることを、アキはしなかった。
なるようにしかならない。
そしてアキには、明日には戻らなければならない仕事があった。
マキのいない飛行機にアキは乗り、サイレンが鳴り続ける街と呼ばれる世界へと、ひとり帰っていった。
アキが家に帰ると、マキのいない部屋はとてもがらんとしていた。
マキに、ついたよ、とメッセージを入れて眠りにつく。
アキは今日のできごとに混乱し、そして疲れていた。
何も聞こえない寝室に服を着たまま倒れ込み、そのままアキは眠ってしまった。
丘の上に立ち涙を流すマキの姿、故郷で笑っているマキの姿、宿の布団でぐっすりと眠るマキの姿、いろんなマキの姿が夢の中でつぎつぎにあらわれる。
そして、アキは一人で飛行機に乗る。隣には涙を流しガタガタ震えているマキ……
………深い眠りから、意識が徐々に覚醒してくる。
今日は何日? ここは?
……自宅だ。
そうだった、マキを残して旅行から戻った日。そのまま眠って…
そこまで考えて、目覚まし時計をセットしたのか? という疑問がわき、アキはがばっと飛び起きた。
寝室はまだ薄暗く、明け方のようだった。時計を見ると、仕事に出るまで2時間あるかないか。
昨夜は風呂にも入らず寝てしまった。シャワーを浴びる時間を考えると、もう一度眠る時間はそんなになさそうだった。
それなら、たまにはゆっくり朝の支度でもしようかと、アキは朝のシャワーを浴びて、朝食の準備をする。
やかんを火にかけ、インスタントコーヒーのための湯を作る。
朝食と言っても、トーストを焼くだけなのだけど。
湯が沸いたので、インスタントコーヒーを作り、トーストと一緒にトレイにのせて食卓に運ぶ。
その時、かすかな音が耳に入ってきた。
瞬間的にアキは身をこわばらせた。
サイレン?
最初に思ったのは、そのことだった。
だが、その音は何かの物音のようだった。
かすかに何かが震えるような音、それはマキが言っていた鳴り響くサイレンの音ではないように思えた。
コーヒーとトーストを載せたトレイを誰もいないテーブルに置いて、アキは台所に戻った。
何が鳴っている?
アキが探すと、すぐに音の発生源がわかった。
台所の食器棚。その食器棚の扉にはめられたガラスが、わずかにだが小刻みに揺れてびりついていた。
アキとマキの住む部屋は、大きな道路沿いに立っているマンションの一室。その道路には昼夜を問わずにたくさんの車が走る。
その振動でたまたまガラスが共振したのだろう。とアキは思った。
アキは朝食を食べ、身支度を済ませると、今日から再び戻る日常にむかって、玄関の扉を開けた。
アキが出勤した後、誰もいなくなった台所では、食器棚の扉にはめられたガラスが、いつまでもいつまでも小刻みに揺れ動き続けていた。




