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第一話 選ばれし者、森で転ぶ

どれほど時間が経っただろうか、敬由が目を開けると雨は止んでいた。


 代わりに、見たこともないほど大きな木々が空を塞いでいた。


「……マジか」


 敬由は仰向けのまま呟いた。


 濡れた作業着。腰の安全帯。片方だけ脱げかけた長靴。持ち物はスマートフォン、財布、煙草、百円ライター。電波は当然のように圏外だった。


 森の奥で、獣とも鳥ともつかない声が響く。


 恐怖より先に、胸の奥から二十七年間温め続けた何かが顔を出した。


「来た……ついに来たぜ! 俺の時代が!」


 立ち上がり、右手を天へ掲げる。


「ステータス、オープン!」


 何も起こらない。


「……能力確認!」


 木の葉が一枚静かに落ちた。


「我が内に眠りし力よ、今こそ――」


 バキッ


 背後で枝が折れる音がした。


 振り返ると、猪に似た生き物がいた。ただし、軽自動車ほども大きく、額から捻れた角が生えている。


 敬由はゆっくり右手を下ろした。


「は、話し合おう、話せばわかる」


 当然のように言葉は通じず、猪は孝行を見据え地面を蹴った。


「そうですよねー!」


 敬由は言葉を吐くと同時に走った。現場で鍛えた体力には多少の自信があったが、相手は四本足である。振り返るたび距離が縮まる。


 木の根に足を取られ、派手に転んだ。


 咄嗟に後ろを見る、角が迫る。


 その瞬間、赤い光が視界を横切った。


「伏せて!」


 少女の声とともに、円盾が猪の角を受け止めた。


 犬のような耳と茶色い尾を持つ少女がそこにはいた。赤い魔力をまとった片手剣が猪の前脚を裂く。


「エリシア!」


 木々の間から矢が飛び、猪の目の横へ突き刺さった。続いて、岩のような体格の小男が戦槌を振り下ろす。


「退け、リネット!」


 盾の少女が横へ跳ぶ。戦槌が猪の額を打ち据え、鈍い音が森に響いた。


 猪は僅かに体勢を崩す、それでも猪は倒れなかった。怒り狂って首を振り、小男を跳ね飛ばす。


「ボルガ!」


 犬耳の少女が叫ぶ、その瞬間敬由の身体は、考えるより先に動いていた。


 倒れた小男の襟を掴み、横へ引きずる。直後、猪の蹄が先ほどまで小男の頭があった地面を抉った。


「重っ……!」


「誰が重いだ、馬鹿野郎!」


 猪が再び向きを変える。


 リネットが盾を構えた。だが最初の衝突で腕を痛めたらしく、わずかに震えている。


 長い耳を持つ弓使いが、静かに息を吸った。


「水よ。流れ、穿て」


 矢を中心に水が渦巻く。


 放たれた一射は猪の傷口へ吸い込まれ、その巨体を内側から貫いた。


 猪が二歩、三歩とよろめき、地響きを立てて倒れた。


 森に静寂が戻る。


 敬由は腰が抜け、その場に座り込んだ。


「た、助かった……」


 リネットは剣を鞘へ戻すと、敬由の前にしゃがんだ。


「あんた、何者? 見たことない服だけど」


 近くで見ると、かなり可愛い。大きな琥珀色の瞳がまっすぐ自分を見ている。


 敬由の喉が急に固まった。


「お、おおお、俺は、その」


「どこか怪我した?」


「ち、違います。じょ、女性と近くて緊張してます」


「正直だね……」


 リネットが半歩引いた。


 後ろでボルガが大声で笑い、エリシアは真顔で首を傾げた。


「女性に接近すると発作が起きる病か何かですか?」


「違います!」


 こうして京野敬由の異世界生活は、華々しい覚醒ではなく、三人の冒険者に変人扱いされるところから始まった。

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