プロローグ 雨の匂い
その日の雨は、土の匂いが濃かった。
山形県某所。夕方から降り始めた雨は、工事現場の掘削面を黒く濡らし、仮設照明の光を細かく跳ね返していた。
「京野、そっちのカラーコーン寄せとけ。車入るぞ」
「了解っす、伊織さん!」
京野敬由、二十七歳。土木会社勤務五年目。彼女いない歴も二十七年目。
後者については誰にも聞かれていないが、本人の中では職歴より重い経歴だった。
敬由は泥を跳ね上げながら走り、カラーコーンを抱えた。二つ同時に持とうとして片方を落とし、拾おうとしてもう片方を落とす。
「一個ずつやれ」
阿部伊織が、いつの間にか背後に立っていた。
三十一歳。敬由の四年先輩で、困ったときには大抵しれっと現れる。助けたことを恩に着せるでもなく、礼を言われる前にいなくなるような男だった。
「いや、俺の秘められし両腕なら二個同時も――」
「片腕は昼にスコップで攣ってただろ」
「あれは封印が……」
「はいはい」
伊織は片方を拾い、所定の位置まで運んだ。
遠くで雷が鳴った。
現場監督が撤収を告げ、作業員たちが慌ただしく片づけに入る。敬由は側溝の向こうに置き忘れた工具箱へ気づいた。
「俺、取ってきます!」
「待て。水が増えてる」
「これくらい余裕っすよ」
その一歩が、敬由らしいといえば、あまりにも敬由らしかった。
ぬかるんだ法面で足が滑る。
「うおっ――」
伊織が敬由の腕を掴んだ。だが雨で伊織の手が滑り始める。
「い、伊織さん」
「情けない声を出すな!」
次の瞬間、白い雷光が世界を塗り潰した。
音は聞こえなかった。
足元が消え、掴まれた腕の感触も、雨の冷たさも、すべてが遠ざかる。
闇へ落ちながら、敬由は場違いなことを考えていた。
――これって、もしかして異世界転移ってやつでは?
そうでなければ困る。
こんな情けない死に方をして、会社の朝礼で注意喚起の事例にされるのだけは、どうしても嫌だった。




