迂愚な竜
大陸の中央、ヴォルフ大森林に世界樹が戻ってきて二十年。
世界樹の祠の傍で、子供の声が聞こえてくる。
「ヴェル! ずるいよ! そのくれーぷはボクのだってママが言ったんだよ!!」
『ほっほっほ、食べたければ妾から奪えばよいのじゃ。』
足元の覚束ない幼子が、必死になって手を伸ばす先にいるのは、子供の頭ほどの小さな白竜。
その足には薄い黄色の食べ物らしきものが掴まれている。
「そんなに高くとんだら、ボクとどかないよ!」
『ほれ、ここまで降りてやるから取ってみるのじゃ』
白竜は幼子の目と鼻の先を掠めるように飛んでいるが、幼子の手はそれを掴むことが出来ない。
「あっ、……くっ、…とどかないよ!」
『ひょっひょっひょ、ならば届くように精進するのじゃな。』
幼子はぴょんぴょん飛び跳ねながら、小さな白竜を捕らえようとしているが、いとけない幼子の跳躍などたかが知れている。精一杯振り上げられるその手は、伸ばす度に空を切る。
男の子と小さな白竜がそんなやりとりをしていると、突然白竜が炎に包まれ、
どどどぉぉぉぉおおんんんっー。
と激しい爆発音が響く。
白竜に向かって跳びあがっていた男の子は、突然の爆発に驚き尻もちをついたが、男の子の前には風の壁が出来ていて爆発の影響はないようだ。
炎と煙に包まれた白竜の周りから煙が流れ、その姿が見え出すと
「何をしてるんですか! 原初の竜たる者が、子供のオヤツを取り上げるなんて恥ずかしくないんですか!」
鈴の音のような怒声とは、これ如何に。
可愛らしい艶のある声の叱責が聞こえてくる。
よく見ると、狐耳を頭に乗せた妙齢の女性が白竜を怒鳴りつけたようだ。
手を腰に当て、仁王立ちしている。
『何を言うか! 妾はアレンを鍛えておったのじゃぞ! 褒められこそすれ怒鳴られる謂れはないわい!』
「お黙りなさい! あなたは先にご自分の分を召しあがったでしょう。それなのに子供の分を取り上げるとは、どういうことですか!」
狐耳の女性がそう叫びながら右手を前にかざすと、
ちゅどどどどぉぉぉおおおんんっ
いくつもの炎の塊が白竜に着弾する。
被弾した白竜を中心に白い煙があたりに立ち込めるが、すぐに巻き起こった風のおかげで視界が晴れる。
姿を現した白竜は、ウロコを一部焦がしたくらいで特に被害はないようだ。
『むむむっ、妾に対する狼藉、その身をもって後悔するがよい!』
白竜の周りに炎の塊がいくつも浮かび、白竜の手が振られると炎の塊が狐耳の女性目掛けて飛び出していく。
炎の塊に襲われた狐耳の女性は、右手を己の前に翳し丸く円を描くように回していく。
フォン、と空気が震えると狐耳の女性の前に透明の壁が出来上がり、白竜が飛ばした炎の塊が、次々に着弾していく。
どどどどぉぉぉおおおんんっ
透明の壁に当たった炎は煙となり、あたりの視界を閉ざしてしまう。
すぐに風が巻き起こり煙が晴れていくが、狐耳の女性の姿は見えなかった。
ふいに自分の右側に気配を感じた白竜がそちらに顔を向けると、
どどぉぉぉおおおんんっ
白竜の顔面に炎の塊が着弾した。
『のおおおっ! 小癪なヤツめ、もう許さんぞえ!』
いつの間にか壁の後ろから移動した狐耳の女性が魔法を放っていたようだ。
顔面に魔法を浴びた白竜は、ダメージはないようだが顔を真っ赤にして踏ん張っている。
大きく口を開き、深呼吸をするように何かを吸い込み始めた。
白竜の胸が膨らみ、異様な雰囲気が辺りに満ちていく。
強大な気配に支配され、抗い難い恐怖が襲ってくる。
狐耳の女性の額に冷や汗が流れ、場の緊張に立ち向かおうとしたとき、
しゅるるるるるぅぅぅ~
空気が漏れるような、間の抜けた音が響く。
『およ、なんじゃ? 成獣になれんぞ。』
白竜は宙に浮かんだまま首を傾げた。
そんな白竜の様子に、狐耳の女性も挙げた右手の前に炎を出したまま訝しんでいる。
『おおっ、そうじゃった。ナディアのヤツに逆鱗持ち逃げされたんじゃ!』
右手を拳にし左掌をポンと叩く人間臭い動きをすると、白竜は納得気に頷いた。
ヴォルフ大森林の世界樹の祠近くにポツンと建っている、何の変哲もない一軒家。
その中に白竜と狐耳の女性、それからその子供と思われる男の子がテーブルを囲んでいる。
「それでは、その逆鱗がないために成獣の姿になれず、ブレスを吐くことも出来ないと言うのですか?」
狐耳の女性が、テーブルの上に座り果実ジュースを飲んでいる白竜に尋ねた。
『そうじゃ。サクヤよ、そなたも知っている通り妾は世界樹と共に異界に封印されておったが、封印される前に世界樹の精霊であるナディアに逆鱗を持って行かれたのじゃ。』
サクヤと呼ばれた女性が再度訊ねる。
「どうしてまた、世界樹の精霊に逆鱗を持って行かれたのです?」
『それはのう。話せば長いんじゃが………。』
「時間ならありますよ。旦那様たちがお戻りになるまでまだ二、三日ありますし。」
『まぁ、その、なんじゃ。あ奴が集めてきた花の蜜を妾が一人占めしたんじゃ。』
「………なんてことを。」
『そしたらあ奴め怒りおってのう。妾が寝ているスキに逆鱗を剥がしおったのじゃ。』
(……それだけ? 話せば長いんじゃなかったの? って言うか、どこまで食いしん坊なんですか。)
サクヤと呼ばれた女性は首を傾げるが、そもそもこの白竜、封印されていた期間が長かったからか、はたまた素なのか、ところどころ抜けている。
『ナディアが逃げてからすぐ後に、姉妹喧嘩が始まってしまってのう。あれよあれよと言う間に封印されてしまったのじゃ。』
「…姉妹喧嘩と言われるのは、はるか昔にあったという神々の戦いのことでしょうか?」
『そうじゃ、そのときにユリアーネのあんぽんたんが、妾を世界樹ごと妹の封印に使ったのじゃ!』
「なんとまぁ……」
言葉のないサクヤである。
『まぁ、逆鱗がなくても成獣になれないというだけであって、魔法とかは普通に使えるから、たいして不自由でもないのじゃがのう。』
「そうなのですね。」
幾分サクヤに安堵の表情が見える。
なんだかんだ言っても、家族のように思っている白竜のことは心配らしい。
母親の表情を見て大丈夫だと思ったのか、大人しくしていた男の子が声を上げる。
「ママ、ボクのくれーぷは?」
白竜に持ち逃げされた我が子のオヤツが、自分の魔法で消し炭になったことを思い出したサクヤがいそいそと立ち上がった。
「はいはい、ちょっと待っててね。すぐに作るから。」
そう言って、サクヤはパタパタとキッチンへ向かって行く。
離れていくサクヤの後ろ姿を見ながら、白竜ヴェルへミーナは呟いた。
『……それにしても逆鱗がないせいか、マナが体から抜けていくようじゃ。すぐにどうこうということはないじゃろうが、あの者が帰ってきたら話さねばなるまいて。』




