元嫁は、しぶしぶ猫化する
シオン・ローダンセは一歩前に踏み出したが、その場に頽れる。
「カ、カナリア姫、あちらを、なんとかしてくださいまし!」
「制御の魔法は、容れ物であったガラスに刻まれておりました。それを破壊した今、命令することなど、不可能です」
「なんですって!?」
ハイドランジアは有無を言わさず、魔力を含ませた拳を握ってシオン・ローダンセに殴りかかった。
だが拳は急所に届かず、空振りとなる。翅をはためかせ、宙に浮いて回避したようだ。
「私と同じ姿をして、不愉快だ!」
『同ジ、言葉ヲ、返ソウ』
「喋りましたわ!」
魂は籠もっていないのに、なぜなのか。カナリア姫は首を傾げている。
「あなた、制作者でしょう?」
「ええ。ですが、動けるはずがないのです。どうして、あのように均衡を保ち、宙に浮かんでいる上に、言葉を解すのか……!」
ハイドランジアは、シオン・ローダンセと拳を交える。
拳を突き出し、回避されたら肘鉄砲を食らわせ、相手がよろめいた隙に回し蹴りで床の上にたたき落とす。
戦闘面では、ハイドランジアのほうが上手のようだった。
『ク、クソ……ネコチャンニ、会イタカッタ、ダケ、ナノニ』
「猫チャン……だと?」
ハイドランジアとシオン・ローダンセの視線が交わった。じっと見つめ合い、こそこそ話をして、何か意思の疎通を図っている。
ヴィオレットが胡乱な視線を二人の男に向けていると、ポメラニアンが現れた。
『あの妖精擬きは、ハイドランジア・フォン・ローダンセの魔力に呼応し、動き出したようだ』
「それは、同じ魂を持つ存在だからですか?」
『まあ、そうだな』
ポメラニアンが喋り始めたのを目の当たりにしたカナリア姫は、悲鳴を上げていた。
「な、なんですか、この、中年男性の声を発する生き物は!?」
「ポメラニアンですわ。カナリア姫にも紹介いたしましたが」
「ポメラニアンちゃんは、可愛らしい犬です。こ、このように、低い声で喋るわけ、ありません」
『すまんな』
「間違いなく、ポメラニアンですわ。伝説の大精霊ですの」
「……」
カナリア姫はポメラニアンを可愛がっていた。丁寧にブラッシングし、散歩にも連れて行き、全身なで回して頬ずりまでしていたのだ。
それが千年以上生きる大精霊だと知るやいなや、明らかに落胆していた。
カナリア姫はさておいて。
何やら熱く語り合うハイドランジアとシオン・ローダンセに、ポメラニアンが突っ込みを入れた。
『お主らは、何をしているというのだ』
「猫チャンの素晴らしさについて、語り合っていた」
『それはお前の意思に感染したものぞよ! お前はお前自身と、猫の話で盛り上がっていたのだ』
「なん、だと。嘘だろうが」
『嘘を言うか!』
シオン・ローダンセの転生体はハイドランジアである。意思があるわけがない。ポメラニアンは呆然とするハイドランジアに、丁寧に説明した。
「やはり、そうだったのか」
『気付いていたのか?』
「なんとなくだが……しかし、私は私だ」
『そうぞよ。お前はお前。シオンはシオン。双方、比べものにならぬくらいの、破天荒な男だった』
「褒め言葉ではないのだろうな」
『当たり前だ!』
すっかり大人しくなったシオン・ローダンセであったが、一つ願いがあるのだという。
「どうやら、猫チャンとやらに触れ合いたいらしい。猫チャンとやらと触れ合えたら、この世に未練はないと」
ハイドランジアはじっと、ヴィオレットを見つめながら言う。
暗に、猫化してくれと言いたいのだろう。
「……わかりましたわ」
ヴィオレットは猫化の呪文である「にゃー」という鳴き声をあげる。すると、瞬く間に猫の姿となった。
「なっ、ヴィオレットさん、あなた、変化魔法を、使えるのですか?」
『ええ、まあ』
『ネ、ネコチャン!!』
シオン・ローダンセが四つん這いの状態で駆け寄ってきたが、ヴィオレットは恐ろしく思って猫パンチに加えて、頬を思いっきり引っ掻いてしまった。
『ネコチャン、大丈夫ダ……! 怖クナイ、怖クナイ……!』
『怖いですわ!!』
ハイドランジアが、シオン・ローダンセに優しい声で助言する。
「おい、四つん這いでヴィーに接近するのは止めろ。気色悪い」
『ム、ソウカ』
ハイドランジアはヴィオレットを抱き上げ、シオン・ローダンセにそっと差し出す。
「力を込めてはいけない。綿を持ち上げるように、そっと抱えるのだ」
ヴィオレットは全身の毛を逆立たせていた。
『アア……ネコチャン、ネコチャン、ネコチャーン!!!!』
シオン・ローダンセの体は光に包まれる。
そして、散り散りとなって消えていった。
解放されたヴィオレットは一回転したのちに、床に降り立つ。
残ったのは、大きな輝く金色の珠。コロコロと転がってハイドランジアの足下にたどり着く。
「これは――!」
『ハイドランジア様、それはなんですの?』
「金の珠だ」
『見ればわかりますわ』
ハイドランジアの代わりに、ポメラニアンが答える。
『それは、ネコ好き変態エルフの魔力の結晶体だ』
『まあ! でしたら、ハイドランジア様を苦しめる魔力は!?』
「もう、ない」
シオン・ローダンセの体が、ハイドランジアの魂と呼応し、魔力を吸い取ってくれたようだ。
これで、ハイドランジアの寿命は延びた。
心配事は、晴れてなくなったのだ。




