203Y年3月16日 台北
203Y年3月16日
中華民国/台湾 台北市
「核」という名の奈落の底を覗き込んだあの日から、数日が経過していた。
三月十二日の弾道ミサイル飽和攻撃こそが、北京が金馬以外の居住地域に放った最初で最後の、そして最も狂気的な直接打撃となった。あの日、台北の空を切り裂いた死の光線と、大地を揺るがした着弾の衝撃は、今も市民の鼓膜と魂に焼き付いている。
台北の街は、依然として空襲警報の不気味な余韻と、街角に積み上げられた土嚢の山、そして割れたビルの窓ガラスを覆うブルーシートに覆われていた。しかし、空を飛ぶのはもはや中国軍のミサイルではなく、日米英豪の救援物資を運ぶ巨大な輸送機の群れに変わっていた。
それぞれの地域で緊張を極限まで高めていた周辺国も、潮目が変わったことを敏感に察知していた。台湾海峡での中国軍の失態と、日米による凄まじい報復、そして何より北京内部の動揺を察した朝鮮人民軍、ロシア軍、イラン革命防衛隊は、手のひらを返したように「予定されていた軍事演習は成功裏に終了した」と宣言。部隊をそそくさと基地へと戻し始めた。
彼らはまず北京に恩を売り、もし中国軍が優勢となれば自らの地域でも火事場泥棒的に利益を得るため危機を煽っていたに過ぎない。自らが返り血を浴び、米軍の圧倒的な物量と正面からぶつかるリスクを背負ってまで、中国の野望に殉じるほどのお人好しではなかったのだ。
そして海峡の対岸――大陸からは、異様な、そして不気味なほどの「沈黙」が漂っていた。「戦狼外交」と揶揄されてきた当局者による勇ましいスローガンの連呼も、今は潮騒の音に掻き消されるようにして完全に途絶えている。三月十三日の深夜、世界は大陸の奥底で何かが決定的に壊れ、そして再構築される瞬間に、沈黙の中で立ち会うこととなった。
フォートミードのNSA本部や市ヶ谷の防衛省情報本部電波部ではこの夜、数十年間積み重ねられてきたモニタリング記録でも全く出現したことのない戦慄すべき変化が記録されていた。
中国全土から発信される軍用無線のパターンが、一秒足らずの間にそれまでのコードを捨て去り、解読不能な新しいアルゴリズムへと一斉に切り替わったのだ。暗号化プロトコルは物理的に異なる位相へ移行し、それまで執拗に続けられていた各戦区間の既存通信パターンは消失、代わりにある「一点」から発せられる極短波のバースト通信のみが大陸の空を支配した。それはまるで、巨大な生命体がその神経系を全て入れ替えたようだった。分析官たちは、内容の掴めない信号の嵐を前に顔を強張らせ、ただ見守るしかなかった。
偵察衛星が捉えた北京の姿は、さらに深刻な事態を示唆していた。深夜二時、煌々と輝いていた中南海周辺の照明が一斉に落ち、漆黒の闇に包まれた。しかし、その闇を切り裂くようにして、装甲車両の長い列が長安街を埋め尽くし、共産党中枢を重層的に包囲していく様子が合成開口レーダーの画像に浮かび上がった。西側の分析官が息を呑んだのは、その直後である。紫禁城の西側、権力の中枢とされる一角から巨大な熱源反応――大規模な火災、あるいは爆発が発生したのだ。光学衛星のレンズは、煙を上げる官邸や、不自然なほど統制された動きを見せる大規模部隊の展開を捉えていた。北京市内は灯火管制を敷かれたかのように真っ暗になり、衛星画像に映るのは冷徹な軍靴の足音を暗示する金属の輝きだけだった。
この劇的な異変は、秘密情報にアクセスする特権を持たない一般の人々にも目に見える異常な断絶として襲いかかった。台湾の、そして世界のインターネットの先にあった巨大なパケットの海が、突如として干上がったのだ。グレート・ファイアウォールは外部からのアクセスを拒むための盾から、内部の惨状を一切漏らさないための「情報の断頭台」へと変貌した。WeiboやWeChatの更新は三月十三日のある瞬間を境に凍りつき、主要なニュースサイトは接続不能エラーを表示する。中国中央電視台の放送画面の向こうからは何の説明も、音楽すらも聞こえてこない。ただ無機質なカラーバーが、対岸で起きている「名もなき激動」を象徴していた。
台北の街角。祐希と雨婷は、ノイズを吐き出すだけのスマートフォンを握りしめ、かつては敵意に満ちた光を放っていた大陸があるはずの北西の夜空を見つめていた。
「通信がつながらない……北京の友達とも、上海の知り合いとも。まるで、大陸全体が地球から切り離されたみたい」
雨婷が震える声で呟いた。かつては夜の海を明るく照らしていた厦門や福州の街明かりさえ、この夜は灯火管制によって塗り潰されていた。
「向こうで、何かが終わって、何かが始まったんだ……」
雨婷の視線は、偵察衛星すら見通せない闇の深淵に向けられていた。世界にとっての大陸は、あらゆる光と情報を吸い込み、沈黙という名の圧力を放射し続ける巨大なブラックホールへと変貌していた。
午後八時
台北市内 避難所内のモニター前
小学校の体育館を利用した避難所には、重苦しい空気が停滞していた。人々は配給された毛布にくるまり、唯一の外部との接点であるモニターを見つめていた。
「……映ったぞ! 信号が戻った!」
マークが叫び、手元のタブレット端末を指さした。砂嵐とカラーバーで埋め尽くされていたCCTVの画面が、一瞬のノイズと共に切り替わった。
祐希、雨婷、そして周囲にいた数百人の市民が一斉に立ち上がり、画面を注視した。
そこに映し出されたのは、いつもの、背後にカーテンのかかる外交部の記者会見場ではなかった。どこか冷徹で機能的な、窓のない会議室のような場所。
そしてカメラの前に座っていたのは、世界が「粛清リスト」に載っていると信じていた、東部戦区司令員の張遠平だった。その隣には、軍服に身を包んだ複数の将軍たちが、氷のような無表情で並んでいる。
画面のテロップには、全人類を驚愕させる、周到に用意された「真実」のタイトルが躍った。




