203Y年3月12日 日本/台湾
203Y年3月12日 午後2時15分
日本
平和な昼下がりの空気は、突如として断末魔のような絶叫に引き裂かれた。
「――ッ!!」
全国数千万台のスマートフォンから、あの耳をつんざくような、生理的な不快感と恐怖を呼び起こす不協和音が、一斉に鳴り響いた。全国瞬時警報システム。しかし、これまでの北朝鮮によるミサイル発射実験の警報とは、空気の震えが根本的に異なっていた。
「ミサイル発射。ミサイル発射。中国から弾道ミサイルが発射された模様です」
テレビの全てのチャンネルが、一瞬で黒と黄色の禍々しい警戒画面に切り替わる。アナウンサーの、声を震わせながらも必死に冷静さを保とうとする絶叫が、スピーカーから漏れ出す。
「直ちに避難してください! 頑丈な建物や地下に避難してください! 繰り返します、直ちに避難してください!」
東京都渋谷区 スクランブル交差点
ハチ公広場を取り囲む巨大な街頭ビルの大型ビジョン群が、一斉に血のような赤に染まった。SHIBUYA109も、スクランブルスクエアの壁面も、「国民保護に関する情報」「ミサイル発射」「避難」の巨大な文字が交互に点滅し、喧騒に包まれていた交差点が、一瞬にして凍りつく。
「おい、嘘だろ……?」
誰かが掠れた声で呟いた直後、交差点の真ん中で一人の女性が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちた。それを合図にしたかのように、数千人の群衆がパニックに陥り、駅の地下入口へ向かって雪崩を打った。
「押すな! 殺す気かッ!」
「地下へ行け! 早くしろ!」
半蔵門線や副都心線へと続く狭い階段では、人が人を踏み越えるような凄惨な混乱が起き、街中には車の急ブレーキ音と、親とはぐれた子供たちの泣き叫ぶ声がこだまする。誰もが頭をよぎったのは、数日前からSNSで流布していた、北京が突きつけた「核」の二文字だった。
沖縄県那覇市 小学校
「みんな、机の下に潜って! 窓から離れなさい!」
教師の悲痛な叫びが教室に響く。ランドセルを背負ったまま、あるいは給食の後片付けをしていた子供たちが、顔を蒼白にして冷たい床に這いつくばる。
「先生、お母さんは? お母さんは大丈夫なの?」
泣きじゃくる児童の手を握りしめながら、教師もまた、震える指で遮光カーテンを閉めた。窓の外には、首里城の丘を臨む那覇の空が、皮肉なほどに青く透き通っている。しかし、その静寂の彼方から、自分たちを焼き尽くす「死の光」が飛来してくるかもしれないという極限の恐怖が、酸素を奪うように教室の空気を重く押し潰していた。
東海道新幹線 車内(静岡県富士市付近)
緊急停止信号を受け、時速二百キロを超える車体が火花を散らして急停止した。緊急制動の凄まじい衝撃に、乗客たちが前の座席に叩きつけられる。車内は非常用照明のみが点灯し、不気味な薄暗闇に包まれた。
「……現在、ミサイル発射の情報により、緊急停車しました。お客様は、窓から離れ、座席の間で姿勢を低くしてください」
車内放送の声は途切れ途切れで、窓の外にそびえる富士山は、何も知らぬまま雄大な姿を晒している。乗客たちはスマートフォンの画面に表示された「弾道ミサイル」「数分以内に着弾の恐れ」という文字を、食い入るように見つめている。隣り合わせた見ず知らずの乗員同士が、死を覚悟したかのように手を握り合い、あるいは家族に繋がらない電話を狂ったようにかけ続けていた。
青森県三沢市
基地周辺の街には、防災行政無線のサイレンが重低音となって鳴り響き、同時に米軍基地内からは、一般の警報とは異なる重厚な空襲警報が鳴り渡った。
三沢の空に、空気を引き裂くような凄まじいエンジン音が響く。それは退避を開始した米軍のF-16か、航空自衛隊のF-35Aのものか。
市民たちは、自分たちの街が「世界で最も優先順位の高いターゲット」になったことを、肌を刺すような冷たい緊張感とともに理解していた。家々の窓は固く閉ざされ、路上からは人影が消えた。ただ、遠くで鳴り続けるサイレンの音だけが、日本という国家がかつてない破滅の淵に立たされていることを冷酷に告げていた。
人々は、地下鉄のホームで、ビルの地下駐車場で、あるいは自宅の押入れの中で、息を潜めて「その瞬間」を待っていた。
一分、また一分。
これまで当たり前だった「明日」という時間が、砂時計からこぼれ落ちる砂のように、急速に失われていく感覚。
日本全土が、かつて経験したことのない、底知れぬ暗い「奈落」の恐怖に包まれていた。
203Y年3月12日 午後2時20分 台湾
日本でJアラートが鳴り響いたのとほぼ同時刻、台湾全土の静寂もまた、この世の終わりを告げるような咆哮によって打ち破られた。
島中に設置された防空サイレンが一斉に、波打つような高音を吹き鳴らし始めた。それは、毎年行われる「万安演習」の訓練放送とは明らかに異なる、重低音の振動を伴った「実戦」の警告だった。
同時に、数千万台のスマートフォンの画面が、強制的な警報通知によって埋め尽くされた。
「国家級警報:ミサイル飛来の恐れあり。直ちに避難せよ」
テレビやラジオは瞬時に緊急放送へと切り替わり、アナウンサーが絶叫に近い声で、全県・全市への避難指示を繰り返し始めた。これまで数週間、封鎖に耐えてきた台湾国民であったが、大陸から放たれた弾道ミサイルの数と、それが「核」を搭載している可能性という未曾有の恐怖に、街は一瞬にしてパニックに飲み込まれた。
台北市
「……来た。ついに、最悪の瞬間が来たんだ!」
マークが震える手でカメラを頭上に掲げ、空を見上げた。青い空の向こう側、まだ肉眼では見えないが、北西の水平線から、死を運ぶ複数の「飛跡」が雲を裂いて迫っているはずだ。
「マーク、撮ってる場合じゃない! 地下へ行くぞ! 雨婷、急げッ!」
祐希は、立ち尽くす雨婷の腕を強引に引き、近くの地下鉄忠孝復興駅の入り口へと走り出した。
「嫌……。お父さんは、お父さんはどうなるの? 総統府や陽明山が狙われたら……!」
「局長なら大丈夫だ! 地下壕は核の直撃にも耐えるようにできている! だが、俺たちはここにいたら一瞬で灰になるぞ。来いッ!」
駅の入り口には、パニックに陥った数百人の市民が雪崩を打っていた。憲兵隊の兵士たちが必死に交通整理を行い、人々を地下の奥深くへと押し込んでいく。祐希たちは人の波に揉まれながら、冷たいコンクリートの階段を駆け下りた。
地下ホームへ辿り着くと、そこはすでに数千人の市民で埋め尽くされていた。誰もが顔を蒼白にし、スマートフォンの画面を見つめ、あるいは家族の名を叫んで泣きじゃくっている。
「……録画は、止めるなよ」
マークが壁に背を預け、震える声で自分に言い聞かせた。
「これが人類最後の映像になるかもしれない。俺たちの仕事は、これを見届けることだ」
祐希は、雨婷を抱きしめるようにして冷たいホームの床に座り込んだ。頭上のコンクリートの向こう側で、都市そのものを焼き尽くす一撃が、今まさに振り下ろされようとしていた。




