九食目 空腹の鼠と黒い棘
穀倉の床へ落ちた麦は、踏むと軽い音がした。
こんな所まで食われたのかと、ヨハンが袋を持ち上げる。
底には、新しい穴が開いていた。
翌朝、セラと訪ねた河岸の倉だった。頼まれた仕事は、穀喰い鼠の捕獲だ。
「毒は駄目だ。出荷する麦だからな」
「分かりました。通り道を、先に見せてください」
袋を積んだ列と、樽の置き場を歩く。
荷が入る順、運び出す順。その間を縫って、鼠が通れる隙間がある。
俺には見覚えのある景色だった。前の職場の倉庫で、探していたのは荷札だったけれど。
灰色の後脚が、袋の横から出ていた。
《収支眼》(しゅうしがん)を使うと、脚へ光が寄る。
袋の裏へ消えた瞬間、見えなくなった。
「そこ、裏へ続いてますね」
「全部繋がってる。追うと反対から出るんだ」
ヨハンが壁際を指した。
俺は網を下ろし、セラへ頷いた。
「だったら、追い込む場所を決めましょう」
*
ヨハンに裏の通り道を聞き、板と布で出口を絞った。
荷を崩さず、人の通路は残す。
最後に空けた細い道の先へ、俺が網を置く。セラはその横で、捕まえた鼠を入れる袋を開いた。
ヨハンが小皿へ炒り麦を盛り、油を一滴落とす。
香ばしい匂いが広がった。
俺の顔も、そちらを向いた。
「効くんですね」
「あんたで確かめるつもりはなかったよ」
セラが笑った。俺は網の柄を握り直す。
見えない間は、眼の力を止めて待つ。代わりにヨハンが撒いた白い粉の上を見た。
細い足跡が、一本ずつ増えた。
「来ます」
ヨハンが脇の板を閉じる。
鼠が通路へ飛び出した。
今なら、見える。
《収支眼》と《消費配分》(しょうひはいぶん)。脚へ2 kcal/分、防御へ1 kcal/分。合計4 kcal/分。
右へ寄る脚の流れを見て、網をその先へ下ろした。
鼠が飛び込む。
枠を押さえたまま端を浮かせ、セラの袋へ送った。
「一匹」
セラが口を縛った時には、次の尻尾が見えている。
俺は大きく動かず、網の角度だけを変えた。
「次も、右です」
ばさり。
もう一匹。
ヨハンが餌皿を少し引くと、三匹目はまっすぐこちらへ来た。
追いかければ、向こうの方が速い。
ここで待つなら、俺の手はもう間に合う場所にある。
袋が替わり、板が動く。
麦を齧る音が、一つずつ減っていった。
低い通路だけを見ていたら、ヨハンが指を上げた。
樽の縁へ、小さな前脚が掛かっている。
俺は網を胸の高さまで起こした。
「上からも来ます。下の袋は、そのまま開けておいて」
灰色の影が跳ねた。
脚へ光が寄る一瞬を見て、網の口を斜めに向ける。影が自分から袋網の奥へ飛び込んだ。
枠を返し、セラの差し出す袋へ落とす。
床の通路は、ヨハンが板で閉じて待ってくれていた。
「いいです。次、下を開けて」
俺が網を戻すと、セラは新しい袋を開いた。
話す言葉が、さっきより短くて済む。鼠の動きに振り回されず、三人の手が順番に動いていた。
「……もう、そこまで獲ったのか」
ヨハンが並んだ袋を見る。
俺は強化を切り、背を伸ばした。
「この通路は、あとでも使えます。新しい跡が出たら、知らせてください」
「頼む。次も、あんたたちに」
その言葉に頷き、網を畳もうとした。
まだ、餌の音がした。
*
鼠は、痩せていた。
灰色の毛の下へ、背骨がごつごつ浮いている。そのわりに腹は膨れ、口だけが忙しく動いていた。
ヨハンが俺の袖を引いた。
「あいつだよ。昨夜も、ずっとあそこにいた」
俺たちがこんなに動いていたのに、逃げなかったのか。
横から屈む。
再び働かせた《収支眼》に映る流れは、妙に偏っていた。
脚でも、齧る顎でもない。肩の辺りへ向かって、細い筋がいくつも寄る。
毛の間に、黒いものがあった。
爪の先ほどの棘。
露出した棘の根元まで追えた光が、そこで細く途切れた。
動く脚へは、さっきほど流れてこない。麦を齧る口だけが、忙しく動き続けていた。
「肩に、何かあります」
俺は指ではなく、持っていた棒で場所を示した。
セラも屈み、鼠の口が動くのを見た。
「……抜けそう?」
「刺さってるのか、生えてるのかも分かりません」
「じゃあ、そのままで運ぼう。箱はある?」
ヨハンが小さな木箱を持ってきた。
底の開いた箱を、鼠と餌皿の上からそっと被せる。セラが床と箱の間へ薄板を滑り込ませた。二人で板を押さえて持ち上げ、今度はその板が底になる向きで運ぶ。
隙間を布で塞ぎ、紐で固定しても、内側では、こり、こり、と同じ音が続いていた。
その音が、さっきより嫌だった。
俺も食べても満腹にならない。
けれど、食べた分は残る。働くときには、使える。
目の前で薄くなっていたあの光は、どこへ行ったのだろう。
セラが蓋を結び、他の鼠の袋から離して置いた。
「見えたこと、検分の人にも伝えてくれる?」
「はい。肩へ集まって、そこで消えてました」
俺はもう一度、言う順番を頭の中で確かめた。
分かったのは、それだけだった。
*
最後の確認では、《収支眼》だけを使って通路を見た。
見えない所は、ヨハンに袋の位置を教わる。粉の跡も一緒に確かめた。
傷んだ袋を出荷の列から外し、残る麦を別へ移す。
「これで、明日も粉を届けられる」
ヨハンは穴のない袋を撫でた。
その粉を焼く店を、俺はもう知っている。
報酬を受け取り、棘のある鼠はギルドの検分係へ運んだ。
獣を傷つけずに入れた箱を見て、係の男は手袋を替えた。
「場所と、見たことを教えてくれ。取り出すのは、こっちでやる」
俺は、肩へ集まって消えた流れだけを話した。分からない原因を、名前で埋めることはしなかった。
手続きを終えると、外の石段で遅い昼飯になった。
豆パンは冷めている。それでも割れば粉の香りがし、噛むほど豆が甘かった。
「今夜は、温かい汁にしませんか」
「うん。私も、その方がいい」
隣のセラが、自分の包みを開いた。
黒い棘のことは、ちゃんと調べてもらう。
冷めた端をゆっくり噛んでいるうち、二人で今夜の温かい汁の話をしていた。
店へ戻る前に、迷宮の採取依頼を見た。
苔灯の穴。薬草と、食べられる茸。
網を置く場所を選べれば、小さな力でもまとめて獲れる。
剣も同じように、狙った所へ運べるようになりたい。
俺はガドの工房へ寄り、朝の仕事前に裏を借りられないか相談した。
その夜、手帳へ黒い棘を描いた。
肩の位置と、戻らなかった光を短く添える。
描き終えたところで階下から声がした。
「レン。汁が煮えたよ」
筆を置くのは、早かった。




