八食目 おかわりを数えない日
朝一番の注文は、まだ客が来る前に決まっていた。
「焦げ目の濃い方、二枚。セラの分ですよね」
鉄板の端へ生地を置くと、マルタが杓子を止めた。
「覚えてたのかい」
「この前、そういう所が好きだって聞いたので」
「なら、そいつは少し待たせよう」
ガドに袋を直してもらった翌朝、俺は夜明け前から台所にいた。
今日の仕事は薄パンの仕込み。賃は食事代を含めずに受け取り、昼は自分で買った粉を焼くことにした。
好きなだけ食べて、昼寝する。
そのために、まず店の分を終わらせる。
マルタに大きさの見本を一枚作ってもらい、同じ量の生地を並べた。
初めの一枚は、真ん中が厚い。端を引くより、生地を回しながら押す方が揃った。
「覚えるのが早いね」
「昼飯が懸かってるので」
「毎日、同じ条件だろう」
返す言葉がなかった。
《消費配分》(しょうひはいぶん)から腕と動作、思考へ1 kcal/分ずつ。
力で生地を潰すより、次にどの手を使うかを先に考える。
焼き場が埋まったら、器を並べる。生地を休ませる間は、豆の鍋を混ぜる。
待つ時間を、別の仕事に回した。
マルタが鉄板へ向くと、次の生地はもう横にある。
俺が包み紙へ手を伸ばすと、焼けた一枚がそこへ来る。
昨日の瓦と、少し似ていた。
こぼれた焼き屑を集めていると、小さな器を渡された。
「焦げてない分は、汁に浮かべる。捨てる前に、使える所を分けとくんだよ」
俺も自分の分を残した。
端まで使えれば、最後の一口が増える。
戸が開いたのは、濃い焼き目の二枚を上げた時だった。
「おはよう。もう、焼けてる?」
俺はセラへ、取り分けたパンを見せた。
「よく焼いた方を、どうぞ」
「食べ比べの予約も、覚えてた?」
「次の時は、俺もそっちを頼みます」
彼女が笑い、代金を置く。
包帯と薬の鞄へパンをしまう前に、一欠片だけ口へ入れた。
「うん。好きなとこだ」
俺は次の生地を置いた。
腹が鳴ったのは、そのあとだった。
*
店で使う粉を買い足しに出た。
ガドの留め具を開き、預かった硬貨を出す。片手で袋を探らなくて済むだけで、朝の市場が歩きやすい。
粉売りの台には、白い粉と、皮の色が混じる濃い粉が並んでいた。
「薄焼き用だね。こっちは匂いが強い。白い方を少し混ぜると、食べやすくなるよ」
開いた袋から、挽いたばかりの匂いがした。
俺は店に頼まれた分を買い、それとは別に、濃い粉を自分の小袋へ入れてもらった。
「パン屋でも始めるのかい」
「昼飯です」
「楽しそうな量だね」
それなら否定できない。
帰ると、客の器がいくつも台へ戻っていた。皿洗いの方へ回り、焼き場が空くまで手を動かす。
昼前、最後の生地が片づいたところで、マルタが俺の粉袋を持ち上げた。
「さて。自分の分は、何枚にする?」
「二枚で」
口が先に答えた。
マルタは粉を量りかけて、俺の顔を見る。
俺は、小袋へ目を戻した。
この匂いを嗅いで、昼に焼いて食べようと思って、わざわざ選んだ粉だ。
それなのに、出来るだけ少なく言ってしまう。
前の体のころは、頼んだ皿より、人がこっちを見る方を先に気にしていた。帰ってからもう一度食べることは、誰にも言わずに済んだから。
ここには、俺の粉がある。
マルタはまだ匙を止めたまま、返事を待っていた。
「……六枚、焼きたいです」
「大きい方? 持ち帰りの小さい方?」
俺は一瞬、黙った。
そうか。そっちを決めていなかった。
「大きい方で」
「じゃあ、こっちの鉢だね」
鉢が目の前へ置かれた。マルタは次の豆の鍋を見に行く。
俺は粉を掬い、水を少しずつ足した。
誰かの顔を確かめる前に、次はどのくらい薄く出来るかが、気になっていた。
*
自分の分になると、どうしても丁寧にしたくなる。
鉄板へ油を引き、生地を載せた。
表に小さな泡が膨らむ。端が乾いたら返し、もう片方へも焼き目をつける。
濃い粉は、焼けると甘い香りが強くなった。
俺は一枚、二つ折りにした。真ん中は柔らかく、端だけが軽く割れる。
「それ、角兎?」
テオが寄ってきた。
「パン」
「ここが耳」
次の一枚は川蛇になり、その次は、走っている池蛙だそうだった。
どれも、俺が丸くしたつもりのものだった。
「全部捕まえるなら、網を持ってこようか」
「皿でいい。こっちへ座って」
テオは自分の昼飯の器を持ってきた。
俺はパンを少しちぎって渡す。少年は豆を載せ、今度は形の説明をせず噛んだ。
「こっち、好きだな」
「俺も。葉も挟んでみるか」
マルタから自分用に買った、炒めた葉を添える。
熱いパンへ豆の柔らかさが重なり、噛むと粉の香りがふくらんだ。葉の酸味と油が、焼けた端までおいしくしている。
テオは自分の器へパンを浸し、俺は次を半分に折った。
大きく焼いた分、具がたくさん入る。
途中で水を飲み、鉄板に残っていた一枚を取った。
テオが最後の小さい端を見て、俺の方へ寄せた。
「それ、レンのだよ。粉、買ってきたんでしょ」
「じゃあ、もらう。次はどんな形になるか、当ててくれ」
「丸いのが出たら、難しいな」
それくらいなら、いつか困らせられそうだった。
皿が空になってから、俺はもう一度、粉袋を見た。
次は、少し厚いのも焼いてみようか。
今日はもう終わりだと言われる前に、マルタが布巾を畳んだ。
「約束どおり。仕事は、ここまで」
*
二階で靴を脱ぎ、寝台へ倒れ込んだ。
窓の外は明るい。今すぐ返す皿も、途中の荷もない。
六枚のパンを、誰の顔色も見ずに食べた。テオへ分けた一欠片もうまそうだった。
今日は、よく働いた。
午後は、よく寝よう。
袖に残る粉の匂いを嗅いでいるうち、目が閉じた。
*
目を開けたときには、窓辺の影が伸びていた。
食事の分も、その間にゆっくり力になっていた。
俺は伸びをして、少し喉が渇いていることに気づく。
水を飲み、夕飯の匂いを追って一階へ下りた。
マルタは、客席で見知らぬ男と話していた。
卓には小さな麦袋があり、底の端が細かく裂けている。
「罠の餌は食われる。麦も減る。それで鼠が丸くなるんなら、まだ分かるんだけどな」
男が袋を広げた。
「妙に痩せた奴がいてさ。捕まえようとしても、餌の所から離れないんだ」
俺は椅子を引く手を止めた。
「穀倉番のヨハンだよ」
マルタが俺へ顔を向ける。
「明日の仕事を頼めそうか、話してた所さ」
俺は男へ挨拶し、裂けた麦袋の前へ座った。
食べ物を扱う倉だから毒は使えず、噛まれた時の備えも欲しい。ヨハンの希望を聞き、俺が網、セラが捕獲の補助を受け持つことになった。ちょうど店へ寄った彼女にも相談し、明朝の待ち合わせを決める。
夕飯の鍋が来る前に、明日の段取りが一つできた。




