四十三食目 料理人の閉めた店
ミナが、パンを一つ割った。
まだ何も挟んでいない、試作用の丸パンだった。
「前の店でね。これに肉を挟んで出してた」
指で示した厚さは、ずいぶん立派だった。
「客が喜ぶと、もう一枚。疲れた顔をしてたら、汁もつけて。子供が来たら、甘い芋を足した」
「……食べたいです」
「うん。皆、そう言ってくれた」
ミナは笑った。
その笑顔が、少しだけ、卓の上へ落ちた。
「店は、続かなかった」
*
水路へ仕入れに出る、三日前の話だ。
粉屋の知人が来てから、ミナは夜に帳面を開くことが増えていた。
俺は向かいの椅子へ座り、彼女が話すのを聞いた。
皿の評判は悪くなかった。
客も来た。
けれど、売れば売るほど、次に買う肉の金が足りなくなった。
料理を減らすのが怖くて、薪や自分の食事を後へ回した。
最後には借りた分まで残り、店を閉めた。
「屋台なら、やり直せると思ったんだ。でも、また帳面が合わない日があるとさ」
ミナの指が、パンの端を押した。
「おいしいって言われた分まで、間違いだった気がする」
俺は、丸パンを見た。
ミナが焼いたこれも、まだ温かい。
初めて会った時の肉と、潮葉の焼ける匂いを思い出した。
「俺は、ミナさんの料理を食べて、一緒に行きたくなりました」
彼女の指が止まる。
「喜んだ客は、本当にうまかったんだと思います。俺も、そうだったので」
前世の仕事でも、忙しくなるほど一人で抱え込む人を見た。
俺自身にも、覚えがある。
だからといって、ここで彼女の店を俺が決めたくはなかった。
「今、客へ出したいのは、どれですか」
ミナがパンから目を上げた。
棚には魚を包む葉。籠には芋と豆。肉の保存箱は、壁際にある。
彼女は一つずつ見て、それから丸パンを持ち直した。
「皮を、ぱりっと焼いた魚。熱いうちに挟む。汁は、別の小椀で」
「うまそうです」
「それと、今度は、私も座って食べられる店」
俺は、空いている紙を彼女の方へ寄せた。
「そこから、数えましょう」
*
試作の日、大将は俺と同じ端からパンを食べた。
皮の焼き目が、一番濃い所だ。
同時に頷く。
「そこ、二票としていいの?」
ミナに訊かれ、俺は口の中の物を飲み込んだ。
「好みは、一票分かもしれません」
「だよね」
そこで、普通に昼飯を食べに来たセラにも渡した。
彼女は、魚の間へ挟んだ柔らかい芋を先に食べた。
「こっちが好き。これなら、汁を別にしなくても食べやすい」
「あ。そうか」
ミナが、俺と大将の皿を並べる。
同じ形に残ったパンを見て、笑った。
「大食い三人を基準にしたら、また店を閉めるところだった」
魚を少し薄くし、パンの端まで届くように切る。
芋を挟み、塩と酸果を最後へ足す。
一口ごとに魚がある。
さっきより小さいのに、最後までうまかった。
「これを、料理市に出す」
ミナは自分で値を紙へ書いた。
俺たちの賄いと、薪の分まで数えた後の数字だった。
*
試食の片付けが終わると、セラが隣へ来た。
今日は、入口で止めるだけではない。
彼女が選んだ、ほんの少しを受け取る。
ユルが紙と筆を置いた。
「途中で止めたくなったら、すぐ止めてください」
「うん。指先へ集めるくらい。届いたら、教えて」
掌が重なる。
細い温かさが、皮膚の奥へ触れた。
今度は、その先を開いた。
俺の庫へ、少しだけ力が入る。
「送り出している分が四、俺へ届いたのは三です。受け取れました」
「少し、途中で散ったね」
セラが手を離した。
彼女の頭の中や、見ている物が伝わることはなかった。ただ、託された燃料が俺へ届いた。
試しに木片を持ち上げても、いつもの上限までしか力は出ない。
「通せる太さは、同じです。使える分が増えました」
ユルが、そのまま紙へ書く。
セラは茶を飲み、自分の掌を見た。
「これくらいなら、午後の仕事も平気」
「今日は、ここまでにしましょう」
俺は、残しておいた試食の皿を彼女へ寄せた。
受け取った力は少しでも、誰かが自分で渡してくれた、初めての分だった。
*
その後の二日も、朝は稽古をした。
四人から返る突きと受け流し(うけながし)を、俺の足で繰り返す。
昼は仕込み、夜は試作。
大将は芋を潰し、二番は俺と薪を割った。三番と四番が皿を洗っている間に、ミナは魚の焼き加減を二通り試した。
増えた手で、試せる料理も増える。
その分、全員の飯も要った。
蜥蜴の素材代を受け取った時、俺は真っ先に、保存の利くパンと脂の多い肉を買い足した。
訓練を続けられる分と、市で働く分。
これで、腹を減らしたまま開店しなくて済む。
ミナは帳面を閉じ、次に仕入れる魚の数を決めた。
あの粉屋にも、自分で注文を伝えに行った。
*
仕入れの日、水路の風は涼しかった。
午前の荷を積んだ平底舟が、町へ向かって並んでいる。
俺は魚屋の箱へ目を向けていた。
「この大きさなら、一尾で何人前ですか」
「レンを数に入れるなら、先にそう言って」
ミナが、箱の前へ立つ。
その時だった。
水門の方から、木が割れる音がした。
舟が一隻、横へ押される。
積んだ袋が崩れ、人の声が上がった。
水面に、平たい背が出た。
荷舟の横幅より大きい。
その後ろへ、小さい背が何本も浮く。
「堰顎獣だ! 上がれ、舟から上がれ!」
魚屋の男が、岸へ走った。
巨体は水路の狭い出口へ腹を据えた。流れが堰き止められ、上流の舟が、横向きの一隻へ次々と寄っていく。
岸と舟の間へ、小さい獣が頭を出した。
船縁へかけた船頭の手が、引っ込む。
飛び降りられない。
「ミナさん、買った物と人を、あっちの石段へ!」
ミナは箱から顔を上げた。
俺が見た先を、すぐ確かめる。
「分かった。火を使える場所も空ける!」
「セラさんは岸で、怪我人をお願いします。ユル、渡れる所を!」
ガドが、もう係留索を肩から下ろしていた。
「俺は、こっちだな」
「はい。舟を、岸へ寄せたいです」
剣を抜く前に、空いた石畳へ力を出した。
二つの輪郭が立ち上がる。
一分。
大将へ盾を、二番へ剣を渡す。
大将の足首から、琥珀色が上がった。
「近い舟を守ってくれ。二番は、その横を通す」
二人が走り出した後も、俺は力を外へ保った。
次の二つが、厚みを持つ。
三番へ索の端。
四番へ、舟へ渡す長い板。
四人を立たせるだけで、庫の力が減っていく。
今から働く分は、その先だ。
だが、人が降りる道が、四つの手で出来始めた。
*
小さい堰顎獣が、岸へ上がった。
大将の盾を避け、板へ向かう。
二番の剣が横から入った。
頭の前で止めず、首の付け根まで振り抜く。
獣が石畳へ転がった。
次の一匹を、俺が受け流す。
剣へ当たった爪が、外へ滑った。
イリスさんに教わった角度だ。
残った剣先を、柔らかい脇へ入れる。
目の前が開く。
「今、渡れます!」
四番が板を押さえ、船頭を支えた。
籠を抱えた女が続く。
最後の一人は膝が震えていたが、三番が舟と岸を結んだ索を手すりにすると、自分で渡ってきた。
「三人、こっちへ!」
ミナの声が、石段から届く。
一隻、空いた。
人のいなくなった舟を、ガドと岸の男たちが引き上げる。
次へ渡す板を、四番が持ち直した。
その前に、水路が盛り上がった。
大きな顎が、二隻目の船縁を押す。
大将の盾が、舟との間へ入った。
鈍い音。
盾の裏を、太い光が走る。
「押すな、流して! 人が乗ってる!」
大将の腰が沈んだ。
盾が斜めになり、口が舟の横へ逸れる。
二番が短い前脚を狙うと、巨体はようやく頭を引いた。
水が、足場の板を叩く。
俺は三番へ索を送らせ、次の舟の先端へ結んだ。
この一隻も、岸へ寄せられる。
そう思った瞬間、向こうで縄が弾けた。
ぱん、と乾いた音がした。
さらに奥の舟が、横へ回る。
船頭が竿へしがみついたまま、崩れた荷の間へ消えた。
浮いた袋の向こうに、片腕だけが見える。
「まだ、一人!」
ユルが岸の印を指した。
「あの杭まで行ければ、裏へ回れます!」
俺は助けた人たちを、ミナへ向けた。
彼女が頷き、両手で道を開ける。
剣を握り直した。
「次へ行きます。あの人を、出す」
大将の盾が、もう一度、水の方へ向いた。




