四十四食目 その一手は、みんなの力で
船頭の指が、荷袋の隙間から見えた。
水を掻いている。
舟が傾くたび、その指が低くなった。
「大将、舟の横へ! 二番、小さいのを止めて!」
俺は剣を鞘へ戻し、索を腰へ回した。
ガドへ、端を渡す。
「引く時は、二回引きます」
「分かった。こっちは持つ」
返事を背中に受け、四番が押さえた板へ飛び乗った。
*
舟の底板が、足の下で傾いた。
濡れた袋を退ける。
下から、船頭の肩が出た。
腕は動く。胸も、水の上にある。
ただ、片脚が荷の間へ挟まっていた。
「今、上げます。俺の肩を持ってください」
船頭が俺の服を掴む。
袋へ両腕を入れ、脚と腰へ力を渡した。
重い。
けれど、四人と毎朝持ち上げていた荷より、形は分かりやすかった。
腰を低くする。
足を近づけ、袋をずらした。
「抜いて!」
膝が動く。
船頭が脚を引いた、その時だった。
舟が横から跳ねた。
水の上に、大きな歯が並んでいた。
大将の盾が、船縁との間で鳴る。
腕の琥珀色が、一気に太くなった。
俺は船頭を胸へ寄せ、舟の低い方へ身を伏せた。
盾の縁を滑った顎が、頭の上を通る。
水と泥が、首へかかった。
「ガドさん、引いて!」
索が張った。
三番が板を渡す。
四番が船頭の上着を掴み、俺と二人で、岸へ身体を送った。
足が石を踏む。
船頭は咳き込みながら、それでも自分の力で立った。
「一人、来ます!」
セラが駆け寄った。
その向こうで、ミナが乾いた布を広げる。
俺は濡れた顔を袖で拭き、水路へ向き直った。
奥には、まだ舟があった。
*
最初は、すぐ終わると思っていた。
だが、上流の舟には荷を積んだまま動けないものがあり、崩れた桟橋の下にも、人が取り残されていた。
大きな堰顎獣を正面から討とうとすれば、顎の先に、その人たちがいる。
岸へ移そうにも、足場は一度に一人ずつしか渡れない。
だから、一隻ずつ空けた。
大将が顎を逸らす。
二番が、足場へ上がる小さい獣を斬る。
三番が索を張り、四番が人と荷を運ぶ。
俺は、その間を走った。
水面から短い頭が出る。
剣を合わせ、斜めへ流す。
爪が空を切った横へ、俺の刃が入った。
次の一匹は二番が受け持つ。
二人の剣が別々の場所を守ると、渡っている人は、もう振り返らずに済んだ。
「二隻目、空いた!」
岸の男たちが索を引く。
舟が陸へ擦り上がり、その分だけ次へ渡す道が広がった。
ユルが杭の印を一本、手前へ移した。
「今度は、ここから渡せます!」
俺は頷く。
さっきより、遠くへ行ける。
倒した数より、その距離が嬉しかった。
*
太陽が頭の上を過ぎた頃、盾の縁が欠けた。
大将の右腕の光も、肘で揺れ始めていた。
力を足せば支えられる。
だが、疲れた姿勢のまま受けさせれば、次の舟が揺れる。
「一度、交代します」
ガドが頷き、用意していた太い梁を岸と石柱の間へ落とした。
留め具を掛ける。
梁へ横板が重なり、狭い水路に斜めの壁が出来た。
駆けつけた水門番が、長柄を三本、その隙間へ揃える。
獣を討つ壁にはならない。
それでも、次の舟を渡さずに待つ間は作れる。
「三分は持たせる。戻せ」
ガドの声へ、俺は四人を呼び寄せた。
経験を一人ずつ、受け取る。
盾の裏の振動。
舟が揺れる、ほんの手前の傾き。
索の端が、どの石へ擦れていたか。
俺一人の目では追えなかった現場が、遅れて身体の中へ入った。
息を吐き、膝を曲げる。
その重さが落ち着くまで、俺も長柄を取って壁へ加わった。
大きな頭が梁へぶつかる。
水門番と一緒に押し返さず、石柱へ力を逃がした。
大将が持ち帰った、盾の角度だった。
次に力を外へ出すと、大将と二番が立った。
もう一分で、三番と四番。
新しく作る分が減り、立っている分も、絶えず減る。
食べて休むための時間は、まだ作れなかった。
俺は持ち直した盾を大将へ渡した。
「次は、柱の右から受ける。舟の人を揺らさずに済む」
厚い掌が、盾の内側へ入った。
*
午後は、崩れた桟橋を一枚ずつ外した。
下にいた二人へ、先に水を届ける。
片方は、自分で這って出られた。
もう一人は、舟の舵へ服を巻き込まれていた。
ガドが鉤で隙間を作り、俺が留め具を外した。
その間にも、盾の向こうでは重い音が続いた。
水門番が二組に分かれ、梁と索を替える。
四番が濡れた板を運び、三番が空いた舟を次の足場へ寄せた。
ミナは岸で人数を数え、温めた布をセラへ渡し、逃げてきた人へ飲み水を配っていた。
魚の箱は、とっくに高い石段へ避けてある。
料理を売るはずの場所に、今は、助かった人が座っている。
「全員に、帰ってから食べてもらいます」
俺が言うと、ミナが顔を上げた。
「うん。だから、あんたも帰ってきて」
俺は頷き、また板へ戻った。
*
影が、岸から水路へ伸びていた。
最後に残ったのは、上流側の舟を守っていた、年配の船頭だった。
足を痛めても、舟が流れれば下の人を巻き込むと、舵を離さなかった人だ。
ようやく別の索が舟を岸へ留めた。
俺はその人の肩を、四番へ渡した。
「ゆっくりでいいです。もう、戻るだけです」
舟から、板へ。
板から、石へ。
船頭の片足が、岸に着いた。
ミナが残りの腕を受け取る。
ユルが顔を数え直し、両腕を大きく上げた。
「全員、上がりました!」
長い息が、胸から出た。
そこで初めて、手の中の剣が、ひどく重いと気づいた。
*
庫を確かめる。
残りが、二十まで減っていた。
四人を立たせ、守らせ、俺自身も一日中、力を使っている。
蓄えてきた分が、ここで尽きかけていた。
大将の光が薄くなる。
若い三人の袖からも、いつもの太い筋が消えかけている。
今食べても、最後の一手には間に合わない。
巨体は梁へ頭を擦りつけていた。
人がいなくなった今なら、その横へ回れる。
そこまで分かっていて、燃料がない。
「レン」
セラが、俺の前へ掌を出した。
「今なら、渡せる。治療は一段落したから」
俺は彼女を見た。
自分で水を飲み、呼吸を整えてから、ここへ来ていた。
「私も」
ミナが隣へ立つ。
「あの人たち、まだ料理を待ってる。鍋を振る分は、ちゃんと残すよ」
ガドが左手を出した。
「俺は、あの留め具を外す分までだ。使い切るなよ」
笑いそうになって、喉が熱くなった。
皆、自分の帰りの分を知っている。
その上で、ここへ持ってきてくれた。
「お願いします。届いた量は、言います」
掌が触れる。
一人ずつの温かさが、入口へ来た。
選ばれた分だけが、俺の中へ流れ込む。
途中で散る分もあった。
それでも、庫の残りが増えた。
「八十。次も、八十……合わせて、二百四十です」
ユルが、その数字を声に出して書いた。
上限は、朝から変わらない。
鍛えてきた力を、今度は最後まで使える。
俺は、大将へ向き直った。
「人は、もう後ろです。今度は、俺たちが行く」
*
ガドが、係留索の留め具へ鉤を入れた。
二番と三番が、左右の石へ乗る。
四番は退いた船頭たちの前へ立った。
俺は水路の縁で、剣を低く構えた。
巨体が頭を持ち上げる。
「今!」
二つの刃が、前脚へ入った。
深く追わない。
頭を左右へ逃がす足を、一拍だけ止める。
ガドの留め具が外れた。
舟を留めていた太い索が、片側から水へ落ちる。顎の下へ引っかかっていた部分が、流れに引かれ、頭を石柱の方へ向けた。
巨体が口を開いた。
そこへ、大将の盾が入る。
厚い掌から、肘へ。
腰から、踏み込んだ足へ。
琥珀の筋が、一つの流れになった。
盾が傾き、硬い顎を石柱へ預ける。
真上へ持ち上げる必要はない。
喉の横が、俺へ向けばいい。
俺は走った。
盾を支える力から、踏み込む脚へ。
脚から腰、腰から腕へ。
皆が託した分を、朝までの俺が覚えた順に使う。
「――《穿牙》(せんが)!」
薄い鱗の間へ、剣が通った。
柄を押す手に、重い抵抗が返る。
もう一歩。
最後まで入れ、身体ごと引き抜いた。
大きな顎が、音もなく閉じた。
盾へかかっていた重さが抜ける。
巨体は石柱を擦り、ゆっくり水の中へ倒れた。
堰き止められていた流れが、先へ抜けていく。
小さい波が、空になった舟を揺らした。
俺たちの後ろで、歓声が上がった。
*
剣を下ろすと、膝が笑った。
ガドの左手が、肩を支えてくれる。
「帰るぞ。飯が遅くなる」
「それは……急がないと」
笑ったつもりが、息だけになった。
四人は、まだそこにいた。
大将の盾を受け取り、岸へ置く。
「助かった。帰ったら、一緒に食べよう」
大将は頷き、二番と並んだ。
俺は、今度こそ全員を戻した。
最後の舟の揺れと、守った岸が、俺へ返ってくる。
重かった。
それでも、人を乗せたまま沈む舟の記憶は、一つもなかった。
目を閉じ、一息置いてから、顔を上げる。
ミナが、魚の箱を運ぶ人へ手を振っていた。
「汁を作る! 手が空いた人、お湯をお願い!」
俺は空いた手を見た。
まだ少し震えている。
椀を運ぶくらいなら、出来そうだった。
「セラさんたちの分、俺が運びます」
水路の風に、やっと、夕飯を待つ匂いが混じった。




